不幸をブルー、幸福をピンク、に例えるとする*1。1年を1cmとする。
幸福な人生はピンクの棒だ(不幸なそれはブルーの棒だ)。長さはいろいろだろう。70cmとか80cmとか?
そしてここに、長さが40cmに満たないピンクの棒があったとする。たぶん交通事故であっさり死んでしまったのだ。しかしここで、その長さをもってして「不幸な人生だ」と言うことはできるのだろうか?
彼は充実した毎日を過ごしていたんだけど、自分の人生がこんなところで終わることに気づく暇もなく死んでしまったので、棒はその末端までピンク色だ。そしてそれは、長さ80cmのピンクの棒の、40cm足らずのところまでを切り出したものと、何ら変わりはないのじゃないか?
40cmに満たないピンクの棒を「不幸だ」と言うとき、それは、ありもしない、あるはずだった、その先に延長されたピンク色を見ているのだと思う。そして、それが折り取られていることで、棒がブルーに変色してしまっているのだろう。
でもそんな外部の視点はないし、棒の色は内側から決まるのだし、もしそれが80cmまで伸びていたとしても、色がピンクだったかはわからない。
きっと実際には、端から端までどピンクの棒なんてのはあんまりなくって、薄いピンクだったり、ピンクとブルーのまだらだったり(でもピンクが多めだったり)、端にいくにつれブルーが濃くなったり、するんだろう。全体が青い棒はもしかしてあるのかもしれない。そして棒の長さは問題じゃないし、長さと色は直接関係しない。
とは言うものの……?
もし棒の長さが10cmだったとしたら? さすがにそれは、不幸なのかも……と言いたくなってしまう(そもそもその棒は色があるのか)。むしろ長さなんてまるで関係がなくって、ほんとうはただ断面の色だけが重要なのかもしれない。
*1:この「色での例え」は、村上龍の『トパーズ』に出てきます。棒ではなくて砂ですが。