すべての夢のたび。

1日1記事ぐらいな感じでいきたい雑記ブログ

また続き(これで終り)

「どんな言いかたをしたところで、事実そのものとはずれている」というのは、ぼくの言語に対する態度・捉え方です(そう言いつつ「多分正しい」とは思っていますが)。つまり『論理哲学論考』の時のウィトゲンシュタインのような「言語は世界の写像である」という考え方はとらないということです。言語は世界を描写しきることは決してできない。つまりぼくは宇宙を物理法則で説明しきることはできない、と考えています。逆に、数学は言語が世界と完全に一致している、世界そのものなのだと思います(ただしその世界はこの世界とは異なる)。

「ぼくらは言語の普遍的構造に則った上でのみ、考えたり話をしたりすることができる」というのは、そのままですか。いちいち言うほどでもない、言語=ルールなのです。そのルールは明示されないけれども、みなだいたいは把握していて、概ねルールの中でゲームをしている。ちょっとはみ出すと、詩になります。詩はルールの存在を前提にそれを逸脱することで表現を獲得しているわけです。完全にルールを離れてしまうと、あるいは最初からルールなしだと、もうそれは記号なのか絵なのか、悲鳴なのか異言なのか、なにもわからなくなる。

「言語は一次元的で、一時にただひとつのポイントに着目することを強制し、その副作用として時間の流れや因果関係が発生する」というのは、ルールのある重要な側面について語っています。よく三次元がいい、いや二次元のほうが、みたいな話がされますが、ぼくは言語は一次元的だと考えています(つまりライトノベルは一次元に分類されるのではないかw)。

小説においてあるシーンが描写される時のことを考えてください。たとえばある部屋について。窓があり窓の外があり、ベッドと本棚があり、机と椅子があって、机の上には何が乗っていて、そして彼女はベッドに腰掛けてこちらを見ている。まるで線の上を点が移動していくように、言語ではこれらのことは順番に描かれます。というより、順番に描くことしか言語ではできない(同じことについて言っています)。ところが、世界のほうは、当然ですがこれらのことが一挙に現前している(筒井康隆の『虚人たち』は違いますw)。写真に撮ればすべてが一枚に収まります。ぼくらは世界を一度に"感覚する"。しかし、"識る"ことは順番にしかできないのです。捉えた世界をバラバラに分解し、言語のルールに違反しないように脳内で配列しなおし、うまくハマったものについて「理解した」と言うのです。

オタクとはWikipediaによると「1970年代に日本で発生したサブカルチャーのファン集団の総称。独特の行動様式、文化を持つとされる」とあります。ところで、人と会話しているとよく発生するパターンにこんなものがあるはずです。「オタクというのは独特の行動様式や文化を持っているよね」と言うと「いや、独特の行動様式や文化を持っているからこそ、オタクって呼ばれるんじゃないの?」と。思い当たりますよね。これらは同じことについて語っています。でも、どちらでもない、これはどちらが原因でどちらが結果という話ではないのです。ただ、言語の制約上、一次元的に、どちらかを先、どちらかを後に語るしかない。そのことによって、その組み合わせが本来持っているのではない何らかの関連性があるように見えたり、因果関係に見えてしまったりすることがあるということです。

それらは世界の法則ではない。言語の法則なのです。

世界は一度に現前し、常に全体が変化し続けている。ただぼくらがそれを理解するとき/表現するときはもう言語のルールにガチガチに押し込められたカタチになってしまっている/そうするしかないわけです(そのために「ほんとはこうじゃないのに!」とうまく書けないもどかしさにいっつもヤキモキさせられるのですw)。ぼくらの社会にはきっと、まるで関係なかったりはじめから因果関係もないものについてああだこうだと議論しているようなことが、おそらく大量にあるのです。だから、坐禅や瞑想では「内部の言葉を止める」ことを重視するのでしょうね。そのことによって、言語のフィルタを通さずに世界を一挙に把握できる可能性が見えてくるわけです。


エントリの最後の節は、まぁ解説いらないですかね…。ここまでわりと頑張って?書いてみました。最近「どうせ伝わらないよなぁ」という思いに負けそうになることが多いので頑張らないと書けないのですw 伝わるとうれしいですよね。で、伝えたいとか、伝わるとうれしいとか、ここのところは言語とは多分関係ない話で、また別の不思議についてのことです。