すべての夢のたび。

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マイケル・サンデルによろしく

 自著『これからの「正義」の話をしよう』(早川書房)が40万部突破のベストセラーとなっているハーバード大学の政治学者・マイケル・サンデル教授(57)。同教授は、身近な例を出して「正義」とは何かを教える。そんな彼の講義の中にはこんな究極のテーマもあった。
「誰か1人が犠牲にならないと全員が死ぬ状況で、殺人は許されるのか?」

 状況はこうだ――19世紀、4人のイギリス人の船乗りが南大西洋沖を小さな救命ボートで漂流していた。食料はかぶの缶詰2個のみで、飲み水はない。食料が尽きると、雑用係の17才の少年・パーカーが体調を崩した。19日目を迎えたとき、船長はくじ引きで死ぬべき者を決めようと提案するが、乗組員ブルックの反対に遭う。しかし翌日、船長はパーカーを殺し、3人の男たちは少年の肉で命をつないだ。


『これからの「正義」の話をしよう』(読んでない)のサンデル教授の講義で出たテーマ。ぼくがはてなデビューしたてで、変な質問(「なぜ人を殺してはいけないのか?」とか)を人力検索にいろいろ投稿していたころを思い出して、クッションに顔を埋めて手足をバタバタさせてのた打ち回りたくなります(笑)。つまり、あのころ、ぼくの書いたものを読んで、そんなふうにモニョモニョしていた人たちがいた、ということなのでしょう。ほんと、申し訳ない気分になります(笑)。

いまのぼくならこう言えます。そんなことは、実際その場に立ってみないと何もわからないのだ、と。この文章だけでは、パラメータが少なすぎ、状況設定が甘すぎなわけです。いやまぁ、多分いくら詳細に書いても無理なんだとは思いますけどね。現実には追いつかない。

それにこの問いでは「許す」のが誰なのかが分かりません。誰に許されたいのか? 神? 法? 倫理? 殺されるその人? 残されたその遺族? それとも、殺人を行う自分自身の心? 未来の自分? その全て? そして、その「許される」理屈は、自分が犠牲となる側に回った時も通用する―その理屈で殺されるのなら許せるものなの? この辺、英語だと、許す主体についてもうちょっと手がかりあるのかもしれないですけど。

ただ議論のタネとして、こういうテーマをぽん、と出してみて皆でワイワイやるのは、それはそれで楽しそうだし、なんか得るものももしかしたらあるのかもしれない、とは思います。でも関心はあまりないですね。どんな出来事でもそれを正当化するロジックはどこからか持ってこれるもんなんだなぁ、と思ってしまっている。どっちの側の言い分もそれなりだよねぇ、と思ってしまうと、絡みにいく気も失せてしまう。「正義」なんてものは、ない、とぼくは思う。ただ、現実に勝者は出る。でもそれは、正しいから勝ったのではなくて、声が大きかったとか、最後まで諦めなかったとか、そういうことでしょう。

それでも最近考えてること、の一つは、自殺しちゃいけない理由ってないよなぁ、ですね。「なぜ自殺してはいけないのか」ではない。いけない理由というのを、どうもぼくは思いつけない。いや、思いつくけど、どれも容易に否定されてしまい、結局なにもないことを確認する、といった感じです。なんかあるでしょうか? 人力検索に投げて聞いてみてもいいんだけど(笑)。