すべての夢のたび。

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"事実"とは世界のどのような性質か

宇宙の終わりのイメージにはふたつありました。ひとつは熱的死。エントロピーの増大が極限に達して、宇宙全体がエネルギー的に均一でフラットな状態になり、もはやなにもイベントが起きない、というもの。もうひとつはビッグクランチ。膨張する宇宙がどこかの時点で収縮に転じ、ビッグバンの反対のようなことが起きるというものです。

でもこのふたつの終わりのイメージはそれぞれ別個のもので、うまく結びつきませんでした。ビッグクランチに至る前に熱的死が来たらそこで全てが止まるのか? エントロピーの増大が遅ければ熱的死を迎えないままビッグクランチが来るのか? ところが、最新の観測や研究によると、この宇宙の膨張はどうやら加速しているらしいとのことです。となると、無から有が生まれるなどということがなければ、宇宙の内容物の密度はどんどん薄まり、やがてはもう新しい星を生み出すこともできないほどに物質が拡散してしまう。これならば割と熱的死、エントロピーMAXのイメージと重なります。まぁ熱と言ってもほぼ絶対零度なわけですが。


エントロピーの増大は、水中に落としたインクのイメージでよく例えられます。コップ一杯の水に赤いインクを一滴垂らす。最初は見えていた赤い玉もすぐに水中に拡散して見えなくなり、やがて均一になってしまいます。水中に拡散したインクが再び寄り集まって一つの赤い玉になる、ということは起きません。エントロピーがひとりでに減少することはないわけです。

赤いインクをコップのどこに垂らそうが、中央に垂らそうが、端に垂らそうが、最終的な状態は同じ、均一にインクが薄く混ざった水ができるだけです。その最終状態から、インクをどこに垂らしたのかを言うことはできません。エントロピーが最大の状態では、情報量がゼロなわけです。もちろんこれはそれが宇宙全体であっても同じです。宇宙が熱的死を迎え、均一でフラットでまったいらになってしまったら、この宇宙でそれまでどんなできごとがあったのかを、なにも言うことはできない。

となると、"事実"というやつは、いったいどこにあるのか?と思うんですよね。


少なくとも、"事実"はものではない、"事実"はもののなかにあるわけではない、ということは言えます。世界線、としましょうか。α世界線の宇宙と、β世界線の宇宙は、最後まで辿ればどちらも同じになります。最終状態を見て何かを言うことはできない。痕跡は何も残らないのです。生命がひとつも生まれなかった宇宙とすら同じなわけです。

誰が何をしようがしまいが、その至る所は同じです。かつてぼくが誰かを好きだったとか、そういう"事実"は、宇宙のどこにも物理的痕跡を残さないのです。それでは、なにかがあったとか、なかったとか、それら"事実"はいったいこの世界のどこに位置づけられる性質なんだろう。熱的死を迎えた宇宙で、過去にある"事実"があったというのはどういう意味なんだろう。あらゆる全てが、起きたのかもしれないし、起きなかったのかもしれないのです。出来事Aが起きた宇宙とBが起きた宇宙の物理的状態に何も差異はありません。それでもあなたは、いや、違いは確かにあるんだよ、と言うのでしょうか?


だから何をしても虚しいよ、という話をしているわけではないです。ただ、これはどういう意味なんだと、そのことだけを不思議に思っています。そして、世界は、わたしの選択でいくつもに分岐していくように見えるけれど、その最後にはあらゆる分岐がふたたびまとめられてひとつになってしまう、というわけです。