すべての夢のたび。

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あと15年生きるつもりで生きる

ぼくはもう何年も前から「お前は既に、今まで生きてきた時間よりも、これから生きる時間のほうが少ないのだ」と、自分に言い聞かせながら生きてきた。そして、そのことは、時間が経つにつれて、ますますほんとうになってゆく。

ぼくは寿命を待たず死ぬつもりだ。自殺をするつもり。それは以前から決めている。でも、いつごろ、というのをあまり具体的にはしていなかった。漠然と、会社を辞める時、というイメージはあったけれど(ぼくの会社はいまのところ終身雇用制だ)。そこをもう少しはっきりと、15年後、と区切ってみたのだ。

多くの人は「自分は自分がいつか死ぬことを知っているが、永遠に生きるつもり」で日々を生きている。矛盾しているがそうだ。死をしっかりと意識できるのは、それなりの老人か、重い病気の人ぐらいではないか。ぼくも、最後は自殺で締めくくると決めてはいたけれど、多くの人と同じように、昨日と変わらない今日が続く日々を生きてきた。

しかし、その「つもり」は事実に反する。ぼくは他の人より早く死ぬ(と決めている)のだし、きちんと終りを見据えることを早く始めるべきだ、と思ったのだ。ふと気がつくと終りがそこまで来ていた、というのではよろしくない。

あと15年生きるつもりで生きる、というのは、来年になったら「あと14年生きるつもりで……」となるわけではない。何年かしたら「あと10年くらい生きるつもりで」になり、さらに数年したら「あと数年で死ぬつもりで」になる。さらに少し経ったら「そろそろ」になるだろう。

「あと15年」を意識するようになると、ちょっと生活が変わってくる。この本はあと15年のうちに何度読み返すだろうかと考える。なさそうだな、と思えば、ありがとう、と処分できる。もう1-2回しか読まなそうかな、と思えば、その1回を大切に読むようになるし、PCやPS3のゲームを遊ぶのでも同じだ(そして、ソーシャルゲームは、こんなもんやってる暇ないな!と思うようになる)。

ものを買う時、いままでは「長く使えるものを」という基準があった。でもいまは、たとえば服など、毎年買い換えればいいじゃん、となっている。シーズン終わってもう着なさそうな服は捨てている。あと15年ならそういう乱暴さでもやっていける。そうやって捨てて捨てていけばいい。終りに近づくにつれ、残された時間でアクセスできるものは減るはずだから。最後には身の回りの、手の届く範囲のものだけが残るのだ。

死ぬまでの時間を充実して生きなければ、という考えではない。逃げ切る/やり過ごす、という気分が近い。ぼくはもう満足してしまった。人生の残りの時間はオマケのようなものだ。明日までね、と言われるなら、それはそれで構わない。しかし、もうしばらく見せてやるよ、と言われるなら、それを断る理由も別にないんだった。