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『ピダハン』読み中

ピダハン―― 「言語本能」を超える文化と世界観

ピダハン―― 「言語本能」を超える文化と世界観

著者のピダハン研究を、認知科学者S・ピンカーは「パーティーに投げ込まれた爆弾」と評した。ピダハンはアマゾンの奥地に暮らす少数民族。四〇〇人を割るという彼らの文化が、チョムスキー以来の言語学のパラダイムである「言語本能」論を揺るがす論争を巻き起こしたという。

本書はピダハンの言語とユニークな認知世界を描きだす科学ノンフィクション。それを三〇年がかりで調べた著者自身の奮闘ぶりも交え、ユーモアたっぷりに語られる。驚きあり笑いありで読み進むうち、私たち自身に巣食う西欧的な普遍幻想が根底から崩れはじめる。

とにかく驚きは言語だけではないのだ。ピダハンの文化には右/左の概念や、数の概念、色の名前さえも存在しない。神も、創世神話もない。この文化が何百年にもわたって文明の影響に抵抗できた理由、そしてピダハンの生活と言語の特徴すべての源でもある、彼らの堅固な哲学とは……?

著者はもともと福音派の献身的な伝道師としてピダハンの村に赴いた。それがピダハンの世界観に衝撃を受け、逆に無神論へと導かれてしまう。ピダハンを知ってから言語学者としても主流のアプローチとは袂を分かち、本書でも普遍文法への批判を正面から展開している。


まだ読んでる途中ですが、非常に興味深いですね。今日読んでいたところまでで、上に引用した内容紹介の3節目、「この文化が何百年にもわたって文明の影響に抵抗できた理由」の一端がわかりました。

ピダハンの使う言語は非常にシンプルな構造をしています。人類の原初の言語の特徴を、おそらくそのまま残しているのではないかと思われます。

ピダハン語は、直接経験を語るための語彙しかないのです。自分の経験したことか、自分の知っている誰かが経験したことしか、ピダハン語では語れない。言葉で語れないということは、その概念が存在しないということです。要は、聖書の内容は豊かすぎてピダハン語に翻訳しきれないのです。

4次元の世界がどういったところであるかは3次元に住むぼくらには理解できない、という話に似てる気がします。整数と実数の関係にも似てる。

ただ、ピダハン語はぼくらの言葉の"部分"に相当するからぼくらはピダハン語を理解できるかというと、それもどうなのだろうか、という気がします。たとえが良くないけれど、人生の途中から盲目になった人が、生まれつき盲目の人の世界を理解できるだろうかとか、そういう話を考えるといいのではないか。それはやはり、理解のしかたが異なったものになってしまうと思う。

このまま読み進めていって、面白い部分が出てきたらまた何か書きます。