すべての夢のたび。

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「誰でもよかった」とはどういうことか?

大阪・ミナミの通り魔事件で、松井一郎大阪府知事は11日、現行犯逮捕された礒飛京三容疑者が「人を殺せば死刑になると思ってやった」と供述していることに対し、報道陣に「『死にたい』と言うんだったら自分で死ねよと(言いたい)。人を巻き込まずに自己完結してほしい」と発言した。

府は自殺予防対策を行う立場だが、松井知事は「(容疑者が必要とするなら)相談窓口に来ればいいし、『行政の支援は受けたくない、この世からいなくなりたい』と言うなら止めようがない」と述べた。


またか、と思いました。また「死刑になりたかったので殺した。誰でもよかった」か。府知事までもが、真に受けてますけど、ぼくはこのセリフは本心ではないと思ってます。

金も家も仕事もない→死にたい→誰かを殺して死刑になろう。ふつう、死にたい人の思考過程はこうはなりません。だって死ぬのは簡単だし(じっさい年に3万人もそうやって死んでるのです)、そんな回りくどい手間のかかることをする必要はない。

人を殺すのは、人を殺したいからです。シンプルにそう考えるべきなのです。ただ彼らは抑圧され、ことばを奪われてしまっているのです。だから自分の本心をうまく言い当てることができないのです。

それで、借り物のことばを使うしかないのです。どこかで聞いた、誰かがそう言っていた、記憶していることばのなかから、自分のいまの状況に当てはまるものを引き出してきて答えた。「死刑になりたかったので殺した」ということばは、そういう状況で出てきたものだと考えます。

人を殺すというのは怒りの表現として理解されるべきです。誰でもよかったと言いつつ小学校に行って刺したとか、秋葉原に行って刺したというのは、特定の誰かではないけれど怒りの対象は限定されていることを表しています。それでは、"ほんとうに"誰でもよかった、というのはどういうことか? それは彼の怒りが、世の中のあらゆるすべてに向いているということです。あらゆるすべてだから誰でもいいのです。自分をこんなふうにしてしまった世の中そのものに対しての、怨嗟の念の表現じゃないかとぼくは思うのです。

「死にたいなら一人で死ね」とか言ってしまうのは、あまりにも頭を使ってなさすぎです。立ち止まってもうちょっと考えてみないと、こういったことへの正しい対処はできないでしょうね。