すべての夢のたび。

1日1記事ぐらいな感じでいきたい雑記ブログ

「自由意志は存在しない派」として振る舞う

脳はすすんでだまされたがる  マジックが解き明かす錯覚の不思議

脳はすすんでだまされたがる マジックが解き明かす錯覚の不思議

  • 作者: スティーヴン・L・マクニック,スサナ・マルティネス=コンデ,サンドラ・ブレイクスリー,鍛原多惠子
  • 出版社/メーカー: 角川書店(角川グループパブリッシング)
  • 発売日: 2012/03/28
  • メディア: 単行本
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静止した絵が動いて見えたり、曲線だと思ったら直線だったり、あなたが見ている現実の大部分は錯覚なのです―。脳は、なぜだまされてしまうのか。その謎を解くために、気鋭の神経科学者が実際にマジシャンに弟子入りし、マジックを通して認知科学実験を敢行!その奮闘ぶりと研究の成果を、ベストセラー『脳のなかの幽霊』の共著者がつぶさに綴る。錯覚の不思議をおもしろく解説した異色の脳科学ノンフィクション。


いまこの本を読んでいる途中です。それほど期待してなかったんだけど実は非常に面白い本でした。本の特徴として有名なマジックの種あかしがいろいろ書かれているのですが、驚いたことに、プロのマジックには(大掛かりなものを除き)特殊な道具を使うものはあまりないらしいです。みな、ただのカードやコイン。この本を信じるならそうらしい。どんなに魔法のようなマジックも、みな人間の錯覚や思い込みを巧妙に利用して行われているようなのです。


さて、この本にも書かれていたのですが、自由意志はないらしいです。そのようなものは存在しないということが、脳科学者・神経科学者・その周辺の領域に住まう人たちの共通認識に、もうとっくになっている。そういうことのようです。最近この手の本を読むとどれにもそう書いてあるので、ぼくも、そうであるとして物事を考えていくことにしました。人間は自由意志を持ってはいません。

こういう話をすると、「じゃあ全ては運命として決まっているのか?」とツッコまれるんですが、対立軸はそこじゃないんですね。「運命vs自由意志」ではない。世界は決定論的ではない。

ではどうなっているかというと、人間の行動はもちろんその人の脳が決めているのですが、その人の意識がそれを決めているのではない、ということです。意識のあずかり知らぬ脳の深い部分で選択は先になされており、後付けで意識が「自分で決めたのだ」と錯覚する。そういうことだと。


この話題ではベンジャミン・リベットの実験が有名なのですが、現在ではMRIなどで脳の活動を詳細に見ることができるため、本人が「決めた!」と思うその7秒(最大)も前に、脳に兆候が現れるのを観察可能らしい。リベットの実験では手順に問題があるんじゃないのとかいろいろツッコミがあったんですが、もうそういったことは無理で、「自由意志は存在しない」という事実に屈し、受け入れるほかないようです。

でも、ふだん暮らしていく分には、いまのところいままで同様に、「自由意志はある」として振る舞ってなんの差支えもありません。外から見たら「ひとかたまりの人間」なので、意思決定のプロセスは隠蔽されて見えないですからね。

自由意志が存在しないことの問題は、これから起きてきます。右手を上げるか左手を上げるか、自分が「決めた!」と思う前に決まっていて、外部からそれを指摘できるわけです。フィリップ・K・ディックの小説みたいに「お前近々殺人するから逮捕ナー」ということになってしまうかもしれない。それは極端な話ですが、たとえば自動車に安全装置を取り付けるとか、そういうことはできるでしょう。怒りでキレる前にアラームで知らせてくれる装置ができて、みんなよく躾けられた犬みたいに大人しくなってしまうかも。野球のピッチャーを観察して、投げる前に球種が解ってしまったらどうなるだろう? 数秒前に相手の次の手を読み解ければ出し抜けるようなスポーツやゲームは、将来は成立しなくなってしまうかもしれません。


そういう実例をこれからいくつも目の当たりにすることで、人間の意識(ここでは考え方とか態度の意)がどのように変化していくのかは興味深いですね。なんせ人の言語の文法は自由意志が存在するのが当たり前、その前提で出来上がっているから、そのままではこういう事態に対応できないわけです。このエントリのタイトルも、ぼくに選択権があってそうしたような書かれ方をしていますが、実際は違っていて、今日これを書くことは決まっちゃっていたわけですw なにを綴っていくのかも、ぼくの意識が決めているわけではないのです。

自ら道を切り開いているつもりでいたが実はそうではなかった。そのことが人生を味気ないものにするでしょうか。そうでもない気もします。おそらく人生は映画のようなものなのです。ストーリーが先に決まっていて関与できないことを知っていても、楽しめないわけではない。しかしこのことで、人はいくらか受け身の意識になるかもしれないし、気楽に(無責任に?)なるかもしれないとは考えています。まぁ、ぼくが考えているわけではないんですけど……。