すべての夢のたび。

1日1記事ぐらいな感じでいきたい雑記ブログ

クリエイターの幸福とは


いい話です。いい話に分類される話です。感覚的にそれはわかる。でもなぜそう感じるんだろう? 野暮なんだけど、ちょっとこの話を分析してみます。

「デリヘル呼んで」。まずデリヘル嬢が出てくる。金銭と引き換えに性的サービスを提供する職業。彼女は現実を象徴している。現実を生きている人。風俗は好きでやる仕事ではない、という合意が多分ある。彼女の存在が話のリアリティを増し、地に足が着いたものにしている。

「なんとなくオカダダのmixかけてたら」。これもリアルさに寄与する部分。なんとなくかける。つまり、ここぞという場ではなく、ごく普通に気に入られて生活の場で自分の作品が使われている。そういったことのなかにこそ尊さがあるという合意も多分ある。

「呼んでないのに普通に遊びに家に来るようになった」。ここはポイント。つまりデリヘル嬢と彼は、"お金で繋がった関係"→"ほんものの関係"へと、"オカダダ氏の作品を介することによって"変化することができたのだ。また話の構成として起承転結の転にあたる部分でもある。

「っていう人の話をこないだ聞いて俺の人生の目標の一つが叶ったし」。その目標の一つがどんなものであるかはボカされている。読み手の想像力に任されている。ここで読み手は必要のほんの少し上を読み込む。

「もうこの話を思い出すだけで僕は一生を腐らずに過ごすことができそう」。ここで作者への報いがあったことが、(普段は音で何かを伝えようとしている人物からの)正直な吐露として語られる。

つまりこの話は、リアルで、マイナスがない。共感を呼びやすくアピールしやすい。そういった構造を持っているように思います。もちろんそれがあれば「いい話」になるってことはないと思う。でも秘密は秘密として、いまはもう少し置いておこう(ていうか掴みきれてないしw)。


この短い話を読んで感じたこと。クリエイターの幸福とは、

  1. 作品が評価されること
  2. 作品が誰かの幸福に寄与すること

このあたりにあるのだろうと思いました。ぼくも「文章を書く系の人」の超末端として、書いたものが評価されたな、と感じることはあります。しかし、それが誰かを幸せにしただろうか?という観点でいうと、極めて怪しい!と考えざるを得ません。つーかぼくの書くものの方向性からいくとそっち方面はあまりなさそうだ、という気がする。ちょっとそのへんも、今後ものを書き続けていくにあたっては、いちど考えてみる必要はありそうかも。


作品が誰かを幸福にし、そのことが作者を幸福にする。巡るものなわけです。