すべての夢のたび。

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インド論理学でくらくらする

『リグ・ヴェーダ』のナサディヤ・スクタ(10.129)では論理学の様々な分野の用語を用いての存在論的な思索がなされたが、これは後に「カトゥシコティ」の四つの円―「Aである」、「Aでない」、「AであってAでない」、「AではないしAでないということもない」―として再定式化されることになる。


iPhoneのSafariでWikipediaを見たらいつのまにか表示がスマホに最適化されてました。メニューを引っ張りだすことができるのですが、中に「おまかせ表示」というランダムで項目に飛べるやつがあって、タッチしたらこのページが出てきた。

インド論理学。なんだかよくわかりませんが、おそらくヒンドゥー教や仏教の教典とかの中に出てくるいろんな言い回しをきちんと整理したものなんじゃないかと思います、想像ですが。

ふつうは「Aである」と「Aでない」を合わせればそれは「すべて」であるような気分がしますが、インド論理学は違うらしい。

「AであってAでない」、これはまだわかるように思える。なんかお経の中に出てきそうな感じが充分にします。例えば、「それは人間であって、かつ人間ではないものである」みたいなね。

しかし最後のはいったいなんだ。「AではないしAでないということもない」。「こともない」って。「Aでないということもない」って要するに「A」じゃないのか?

ここで「A」になんか具体的な値を突っ込んでみると、言葉としてはなんとなく、ああそういう言い方もあるかもねーって感じにはなるんですけどね。例えば「"いいヤツ"でないということもない」とか。まぁほとんどそうなんだけどたまーにちょっと違うんだよなーみたいなニュアンスの。

聖書の中の三位一体の話とか、明らかにふつうに読んでるとなんじゃこれみたいのをどうにか解釈して意味づけてくような、その類のものなのかと思いました。もし違ってても当面困ったりはしなさそうですが。日常でインド論理学について誰かと話す機会はあまりなさそうだし。