- 作者: 永井均
- 出版社/メーカー: ぷねうま舎
- 発売日: 2013/03/12
- メディア: 単行本
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なぜ人を殺してはいけないのか、自殺を思いとどまる理由はあるのか。若い世代の真率な問いと、あの「〈私〉の形而上学」の哲学者が全体重をかけて対決した、21世紀の哲学論集。 この世界には、隠されている秘密があり、「当たり前の世界像」の根っこをハンマーで打ち砕けば、発見に満ちた現実が立ち現れる。 子どもたちの疑問に答えることは、「なぜ世界は存在するのか」を精密に考える哲学と同根・同レヴェルだ。哲学することは、闘うこと。
永井均さんの新刊。いろいろなところに発表された文章・論文をまとめた本です。なので文体もバラバラで、テーマがいくつかに分かれてる。
でも〈私〉に関しての書きものは、いつもと同じ感じ。永井さんの本はどれ読んでも「〈私〉とは何か」について、繰り返し同一の論じ方がされてる。もうおじいちゃんったらまた同じ話して……のレベルにどんどん近づいてる(おじいちゃんではないが)。
そう思って読んでたんだけど、お、微妙に進化してる、と思うところがありました。特にこの本では〈私〉テーマについて入門レベルの読者を対象に書かれている文章もあり、そこのところがわかりやすかった。
面白かった部分をちょっと書きだしてみます。
世界の中に〈私〉という特殊な存在が、なぜ一人は存在しなくてはならないのか。これには、いや、そんなことはない、と否定的に答えることもできます。世界に〈私〉がいないことは可能だからです。たとえば、百年前は、ここにいる人は誰も存在しなかったし、百年後にもたぶん誰も存在しないであろう。だから、世界に私がいない状況は過去にありえたし、未来にもありうることになります。たまたま今は存在しているけれど、いないことは可能だといえるわけです。それから、たとえば、私が胎児のとき母親が中絶していたら、私は存在していない、ともいえます。だから、人類が存在して、人間はたくさんいるけど、その中に私は存在していない、ということも可能だ、といわざるをえません。そう考えると、世界の中に〈私〉という特殊な在り方をした生き物が一つだけ現に存在しているという状態は、偶然的であるといわざるをえません。必然性はありません。
ここまでの主張に難しいところはないですよね。誰も読んで理解できると思う。で、ここからが、おお、と思った。さすが、なんども同じ話書いてると語り慣れしてくるんだなと。
さて、そこで、もう一歩踏み込んで考えてみましょう。今、母親が中絶したら私は生まれてこなかった、と言いましたが、逆に考えてみましょう。つまり、母親が中絶せずに、現実の私と同じ性質の束を持った奴が生まれてきたら、そいつは必ず私なのか、と。
「性質の束」って言い回しはちょっとひっかかるかも知れませんが、まぁ、私を私たらしめる特徴の全て、って感じでしょうか。
母親が中絶したら私は生まれてこなかった。では中絶しなかったらそれは必ず私なのか?
何を言ってるのかわかりにくいかもしれませんが、こう考えてみましょう。いま、ここに、あなたのクローンがいるとします。複製機かなにかで作ったのかもしれません。姿形から遺伝子から記憶から、なにからなにまで同じ。周りの人から見れば、同じ人間が2人いるように見えます。でも、あなたには、片方は〈私〉でもう片方はそうじゃないってことがわかっている。つまり、ある人間が〈私〉であるという状態は、その人間の姿形記憶遺伝子、そういうものとは別の何かによって決定づけられている、ということです。
ということは、母親が中絶せず生まれてきた赤ん坊が、もし成長したらいまのあなたとまったく同じ姿形になる人間だったとしても、それが〈あなた〉ではない、ということはありえるわけです。
ということはさらにいうと、実は最初からウソが語られていたことがここでわかるわけです。「母親が中絶したら私は生まれてこなかった」。これは実はウソなんです。私は、どの母親の赤ん坊としてでも、〈私〉として生まれてくる可能性があるのです。クローン問題を考えれば、私を私たらしめている諸性質と、それが〈私〉であるという状態は、まったく関係がないことが明らかだからです。
と、いうことは……? ここからさらにこの話を発展させていくことが可能です。勘のいい人ならちょっとゾクッとする結論に辿り着くことができるかもしれません。どうでしょうか。