すべての夢のたび。

1日1記事ぐらいな感じでいきたい雑記ブログ

ラーメンとサヴァン(記憶はどのように記憶されているか)

どうしても時々、あの店のラーメンが食べたくなってしまう。わざわざ電車に乗って出かけて、店の前で並んで、注文して席につく。ようやく出てきてひとくち食べて、ああこれだよこれこれ、と思う。

この「なにかを食べて『この味だ!』と分かるときの記憶の働き」を詳細に検討してみたいと思います。

実際には、ひとくち食べて「この味だ!」と思う時もあれば、食べて「あれ、なんか味変わった?」と思う時もあるわけです。実はここで起きていることは、想起ではなく照合なんですね。

ぼくらは食べ物の味を"思い出す"ことはできないんです。どういう形でか脳内の奥にしまわれている「あの味」と、いま食べている「この味」を照合して、一致しているかしていないかを判断し、「この味だ!」という気づきを得ている。記憶の働きを正確に再現すると、そのようになっていると考えられます。

脳のどこかに記憶された「あの味」の生データにぼくらは直接アクセスすることはできません。もし直接のアクセスが可能なら、味を思い出すことでほんとうに舌の上に味を感じられるはずです。それが可能なら、もうあのラーメン屋に行かなくてもすむでしょう。思い出せないからまた行くわけです。

ある種の精神的障害を持つ人々の間には、この仮定と同じような症例を見出すことができます。過去の出来事を思い出すと、まるでいまそのことがここで起きているかのように映像が眼前を覆ってしまい、そのときと同じような心理的体験をしてしまうのです。

もうひとつ例をあげると、モズのはやにえがあります。どうしてモズは木の枝に突き刺した獲物をそのまま放置してしまうのか? 一説によると、モズは獲物を刺した場所を映像として記憶しているため、少しでも周囲の風景に変化があると記憶の照合が失敗し、もうその場所がわからなくなってしまうというのです。

たぶん五感の記憶は、感じたそのままを記憶するほうが脳内の処理的には低コストなはずです。しかしヒトの脳は感じたものを変換し抽象化して記憶し、生データはどこかにしまわれてはいるけれど、通常はアクセスできないようになっている。どうしてそういう仕組みになっているのかはわかりません。まぁ過去を思い出すたびにフラッシュバックが起きても困るわけですけれど。抽象化しあいまいさを持たせたほうが取り扱いやすいとか(モズの例みたいな厳密な一致が不要になるので)、データが小さいほうが取り回しがいいとかそのへんかもしれません。もちろん言語化しないと論理的思考に乗せることもできないので、それもあるとは思います。

ぼくの考えでは、サヴァン症候群、イディオ・サヴァンというのは、「何かを失った代りに何かを得た」ようなものではありません。おそらくは、記憶の抽象化回路が壊れちゃってるために、記憶の生データへの直接アクセスが可能になっちゃってる症状です。なので、ああいうものに「人間の可能性」を見出したりするのは、ちょっと違うのではないかなと思います。あの段階を超えてきたところに、いまのヒトがある、それが進化の結果なわけですから。たとえば画像検索でもそうですよね。まったく同じ画像を持ってくるほうが易しい。似たような画像を探して持ってくるほうがより複雑なことをやっているわけです。