読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

すべての夢のたび。

1日1記事ぐらいな感じでいきたい雑記ブログ

自由意志は本当に存在しないのか(何度め)


存在するか存在しないかで言ったら「しない」というのが正しいらしいのですが。

でもそもそも「自由意志は存在しない」というのはどういうことかがよくわからないですね。何を言っているのか。それが存在しないとしたら、ぼくの体は勝手に動くということか。いや「自由でない意思」が存在して、それに従って動くということなんだろうな。

しかし「自由でない意思」ってなんだ。ぼくはこう考えたいのに「自由でない意思」が違うことを考えて体が勝手に動いてしまう、みたいなことではないはずですよね。それだとその「ぼく」ってのがなにか自由な意思を持ってるのと同じになってしまう。

だからそうではなくて、要はぼくらは好き勝手にものごとを考えてるように感じているけど、それは錯覚で、考える内容は事前に決まってしまっている、そういうことなんだと思います。

しかし実際にそうであったとして、仮にそれが社会の共通認識にまでなったとして、じゃあ例えば刑罰はどうなるんだってことになりますよね。ぼくの行動の責任主体はぼくじゃないわけなので。脳が勝手に考えて体がそれに従って動いてるだけ。そんなのの責任を取らされるのはおかしいのでは。それに、更生できるかどうかだってぼくの頑張りとはまるで関係ない。なにかぼくの気持ち?を離れたところでもう決まってしまっているということなのか。

そんなふうで、今の世の中は自由意志があるっていう前提で構築されているので、自由意志なんて実は幻想だったっていう共通認識が広まったら見直し・再構築が必要なんではないか、なんて一瞬考えたりするのですが、その「見直さないといけない」っていうふうに、行動を変えられると思っているというそのこと自体が幻想だというわけなので、結局のところ自由意志のあるなしは世の中になんのインパクトももたらさないのではないかということに。やれるならやれるだろうし、やれないならやれないだろうという、ただそれだけの話で、現状とまったく変わらない。


最近あまりそういうことを考えなくなってしまっていたので、なんだか言語化能力が落ちているように感じられますね。いや、落ちるも上がるもぼくの意思ではないのでどうしようもないんですが……。というふうに「自由意志は存在しない」ってのはやる気ない人に都合よい思想のように感じられます。だってしょうがないじゃんみたいな。しょうがないじゃんって考えてしまうのもぼくの気持ちじゃないんだしみたいな。自己参照の永久ループだなぁ。

ちょっとまじめに考えようと思って本買ってきましたよ。

〈わたし〉はどこにあるのか: ガザニガ脳科学講義

〈わたし〉はどこにあるのか: ガザニガ脳科学講義

意識をめぐる冒険

意識をめぐる冒険

だらだら読みたいと思います。いやわかんないな。自由ではないぼくの意思の命ずるままに読んだり読まなかったりすると思います。