すべての夢のたび。

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人間は性善か性悪か、答えはもう出ていた

〈わたし〉はどこにあるのか: ガザニガ脳科学講義

〈わたし〉はどこにあるのか: ガザニガ脳科学講義


読み終わった。新しいデータをいっぱい突っ込まれたのでそれらが整理されて頭の中が書き換えられるまでしばらくかかりそうです。面白かった。アマゾンのレビューで後半がいまいち、というのがあったのでしばらく買うのを躊躇してたのだけど、その後半が面白かった。前半の議論はほかの本でも読めるけど後半の話はほかではあまりないと思う。

さて。この本の216ページに、人間の「普遍的な道徳モジュール」として、下記の5つの特性が紹介されてます。

  • 他者を傷つけず、困っていれば助けの手を差しのべる。
  • 公正、正義、他者を平等に扱う。
  • 伝統や正当な権威者を敬う。
  • 所属集団、家族、国に忠誠を示す。
  • 清潔を尊び、汚染と肉欲を遠ざける。

これらは民族や文化に関わらず全ての人があらかじめ持っているものとされています。どこから学ぶものでもない、赤ん坊の頃から知っている。要はこれらは本能なのです。あらかじめ遺伝子に記述され、生まれる前から脳に組み込まれている。

なので、人間は性善か性悪かについては、もう議論する必要はないんです。この事実が広まるまでは世界のどこかではこれからも当面ああだこうだは続いていくんでしょうけど、科学が進歩してこうやって勝手に答えが出されてしまってたりするんですね。

でもちょっと思ったんです。それは"善"か"偽善"か、って議論ありますよね。そもそも脳が勝手にやってることを、"善"って呼んでいいんだろうか?って気分に、なんとなく、ならないですか? これらの善行は偉くもなんともない。だってぼくらは自分の意思でそうしようとしてるわけじゃなくて、ただ仕組みに従って動いているだけだから。

なので、"善"って呼ぶにふさわしいのは、むしろいま"偽善"って呼ばれているものなんじゃないだろうか、って気がしてきました。なぜならそれは自分の意思で為す行為ですからね。いままで"善"と呼ばれてたうちのあるものはただの本能に過ぎない。"善"と"偽善"があるのではなく、ただ"本能"と"善"があるだけだったりするのでは、なーんて考えてました。

結果さえ良ければそれで良くない? 正しい意図に基づいてなければ神さまがお認めにならない? じゃあ、「他者を傷つけず、困っていれば助けの手を差しのべる」や「公正、正義、他者を平等に扱う」はもともとただの本能でそこには後付けの意図しかないのだから、神さまもきっとこれらは評価に値しないと考えるでしょうねー。