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すべての夢のたび。

1日1記事ぐらいな感じでいきたい雑記ブログ

意識の無用性について

最近記憶がなくなるような飲み方を2回しました。どうなったのかというと、どうもならず、誰かに介抱されたり道で寝ていたりはせず、ベッドで寝ている自分を発見するのです。それで「あれ」と思って思い出そうとすると、飲んでる途中までしか記憶がないのです。途中からベッドまでが消えている。

記憶がなくて、その間のことを関係者にあとで尋ねると、ふつうに応答してましたよと言う。冷静だったと。立って歩いてましたよと。確かに、支払いも済ませてるようだし、別れ際の様子を聞いてもちゃんとしてるみたい。

こうなるともう意識とか必要ないんじゃないのって気もしてくる。ぼくはそんなのなくてもやれる。じっさいごく一部にはこういうことが、酒飲まなくても起こってしまう病気の人がいるらしいです。

意識は傍観者であるという「受動意識仮説」はおそらく正しいんだろうなと思います。なにかを意志することなんてできない。決定は脳のどこかで先に行われていて、意識はそれをあとから見つめて、自分がやったつもりになってるだけ。

意識の出番はおそらく行動の評価くらいです。いわゆるふりかえり。行動指針における重み付けを微修正するだけ。評価の定まってる、パターン化された、回路に焼き込まれたような行動であれば意識はいらない。

ぼくは意識なしに飲み屋の支払いを行い、駅まで歩き、Suicaを鞄から出して改札を通ってSuicaをしまい、階段を登り降りしてホームで電車を待ち、電車に乗って椅子に座り、降りるべき駅で降りて、車に轢かれてないところをみると正しく信号の変わるのを待って横断歩道を渡り、家の鍵を開け、着替えて、ベッドで寝てる。iPhoneすら充電されてる。意識なしに。すごい。

こんな時酒飲んでない人はなにしてるかと言うと、考え事をしてたりするのです。目の前のことを見てなくてもたいていのことはできますよね。洗濯とか洗い物とか、どうでもいいような"頭使わなくていい"仕事とか。

ただ傘はなくしてます。傘に付いてはまだ回路に焼かれてないんだと思う。雨とかそんな降らないですしね。例外になってしまう行動は意識の出番。でも必要なときってそれくらいじゃないのかなー。新しい傘を買いました。