すべての夢のたび。

1日1記事ぐらいな感じでいきたい雑記ブログ

シンギュラリティはどうしてダメなのかをうまく言いたい

ぼくは2045年だかにシンギュラリティが来る的なアレが嫌いで。嫌いっていうエントリをひとつふたつ、以前に書いたのですけど、もっとうまくそれを言えてる記事がありましたのでご紹介させていただく。



そうなー。ぼくもそう思ったけど、あれ宗教だよな。テクノロジーの進化速度が指数関数的に増大しいつか特異点に達する。話的にはありそう。2045年とかいう時期はともかくとしていつかそうなりそう。でも、じゃあ、なにがダメなんだっけ?

しかし、それではなぜ、シンギュラリティには違和感を覚えるのか?

最大の理由はそれが、技術的理論に仮装した神学的信仰、と思えるからだ。


それってどういうこと?

その、おもしろくて、しかも深さもある主張によると、神の降臨は未来においてもないけれども、われわれ人間自身が必然的に神になるのだ。それは多くの人の脳と心を刺激する、中身の濃い考えだ。人間のすべての知覚や感覚に神性がある、とする考え方は、ぼくも嫌いではない。それは、真理かもしれない! しかしシンギュラリティはまことしやかな宗教であり、信仰の産物ではあっても科学ではない。そう見なすべきだ。


シンギュラリティ説の賛同者の多くが、それが自分たちが生きている今の時代に起こり、彼ら自身が天国に携挙される、と信じているのも、偶然ではない。宗教には、死の恐怖を和らげ死後の生を約束するものが多い。しかしシンギュラリティは、いとも簡単に、人が永遠に生きられると約束する初めての宗教だ。しかもそのために個人的な犠牲や、食事の制限は課せられない。このおいしい勧誘を断るのは、むずかしい。


そう、ぶっちゃけていうとシンギュラリティ教の教えはこうなんだよね。「科学があらゆる問題を解決する」「そしてそれはもうすぐ、あなたの生きているうちに起こる」「(といっても理性ある人を説得できるほどの根拠はなにもないんだけど)」。おお……まさしく宗教じゃねえか。ですよね。

この記事の最後、著者は「逆パスカルの賭け」という概念を提唱しています。「パスカルの賭け」ってのは、前も書いたことあるけど、「善行をすべき」ってやつです。なぜなら、善行は神がいようがいまいが役に立つから。神がいなくてももちろん世の中のためになるんだから役に立つし、もし神がいればそのうえ天国に行けるのだからなおさら役に立つ、だから神がいようがいまいがあなたは善行をすべきである、という。

では「逆パスカルの賭け」とは? 「あなたがシンギュラリティを信じているとしても、それは実際には起きないと思って生きるのがベストである」と著者はいいます。たらたらだらだら生きていても、もうすぐ来るというシンギュラリティがすべてを解決してくれるかもしれない。でももし来なかったらあなたの人生はクソみたいなまま終わりですよ。だからシンギュラリティが来ようが来まいがちゃんと生きようぜ、っていう。そうね、それが適切な生活態度だよなーとぼくも思う。

でも今回のこの記事でも「それがなぜ来そうにないのか」についてうまく言えてるとは言えないなぁ。そこをもうちょっとちゃんと説明できればいいのだけど。「宗教だからだめ!」はちょっと弱いですよね。