読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

すべての夢のたび。

1日1記事ぐらいな感じでいきたい雑記ブログ

意識と記憶とあとひとつ

先日、早朝に椅子の上で目を覚ましまして。いつも会社行くために起きる1時間くらい前の時刻ですね。

記憶を辿ると、居酒屋で5杯目くらいを頼んだところまでは覚えてるんですが、その後の記憶がまったくありません。何杯飲んだのか知りませんが、お会計を済ませて帰宅し戸締まりをし、エアコンと電気をつけて、着替えて椅子に座って寝ていた、ということになります。

若干頭痛がしたのでバファリンを飲みました。明らかに酒が残ってます。ふつうに酔っ払いです。ぼーっとしてるとあっという間に時計が進んでしまうので気を付けて会社に行く準備をし、駅へ向かう途中のコンビニでブレスケアとスパリブ(後から飲んでも効くんでしょうか?)を買って出社しました。昼食後ぐらいまでアルコールは抜けませんでした。

それで翌々日くらいに居酒屋へ行って、マスターにその時の様子を聞いてみたんですけど、別になんともなさそうだった、とのことでした。ふつうにしっかりしてるように見えたと。そんな記憶なくすくらい酔ってたんですか?と驚かれたという。


ということで意識と記憶の関係についてちょっと考えてみたい。


ここでなくなっているものは記憶ですよね。意識じゃないです。「酒に酔って意識をなくす」ということばはありますが、それはふつうぶっ倒れて寝てるような状態を指します。ぼくの場合はそうではない。本来やるべき行動をちゃんとやっている。だから意識はあった、と言えるでしょう。記憶は、作られたがなくしたのか、それとも始めから生成されなかったのか? ここは微妙ですが、まったく生成されなかったとすると、そもそも各種行動を順番通りに行えないと思うので(お会計の前に服を脱ぎだしたらやばい)、短期記憶は生成されたが定着しなかったのではないかと思われます。ここらへんはよくわかんないですけどね。もしかしたら自転車に乗るのと同じで、自動で一連の行動ができるくらいまで熟達してるのかも知れません。

さてここで【わたし】が登場します。ぼくにもいるし、皆さんにもいる、あの【わたし】です。「意識=【わたし】」と考える向きもありますが、ぼくはそれは違うのではないかという感じがあります。というのは、酔ったぼくの行動を振り返ると、意識はあるが【わたし】はそこにいない、という印象を受けるからです。ぼくはカウンターの隣の人と会話をいろいろしていたらしいですが、そこに【わたし】はいなかったのです。

ただし、そう言い切るには微妙な面もあります。記憶がないためです。記憶がないと、意識はあるが【わたし】はいなかったのか、【わたし】はちゃんといたんだけれど覚えていないだけなのか、区別がつかないのです。ここらへんに何かの限界というか制約があるような気がします。

でも少し考えると、「【わたし】がその時いなかったという記憶がある」という状態だけはそもそも成立しないですよね。その記憶は誰の記憶なんだよって話になってしまう。このケースは除外していい。記憶はつまるところ「【わたし】の記憶」でしかない。記憶があるということは【わたし】が"そこにいた"ということ。【わたし】を通すことでしかセカイは記憶されないのです。


意識と記憶と【わたし】というのはそれぞれが複雑に絡み合っている。本来はうまく切り分けられないものに無理に名前を付けてしまっているのじゃないかって気がします。