Hypocognitionが問題らしいです。例が面白かった。
レビーはタヒチの言葉を26カ月にわたって勉強した際に、タヒチには悲嘆や罪悪を表す言葉がないことに気づきました。タヒチの人々は、身近な人が亡くなった際に「悲しい」という表現ではなく「気分が悪い」「変な気分」という表現を使ったとのこと。レビーは、悲しみについて考えたり表現する枠組みの欠如が、タヒチの人々の高い自殺率の一因であるとみています。
悲しみは動物に存在する基本的な感情だと思います。人間以外の動物に言語が存在するのか知りませんけど、人間なのに他のほとんどの民族が持ってる言葉が存在しないって結構すごいですよね。まぁだからと言ってそれが高い自殺率の一因だってのは飛躍しすぎの気がしますが。
およそ3分の2のアメリカ人にとって複利の概念はHypocognitionであり、3分の1のアメリカ人にとって2型糖尿病もHypocognitionです。
権利がHypocognitionってヤバいですね。ぼくも権利の概念をどこで獲得したのかはわかりませんが、おそらく子どものころにはそれを知っており、それを「権利」と呼ぶのだ、と知るのはその後だったんじゃないかと思います。2/3のアメリカ人にはそういった経験がないということなんでしょうか。
2型糖尿病がHypocognitionってちょっとHypocognitionを乱用しすぎじゃないですかね(笑)。体の調子が悪いのが実は何かの病気でその名前を知らないだけ、ってふつうにあると思います。
例えばヤーガン語には「同じことを望んだり考えたりしている2人の間で、何も言わずにお互い了解していること(2人とも、言葉にしたいと思っていない)」という意味を持つマミラピンアタパイという言葉が存在しますが、マミラピンアタパイという表現を持たない文化の人々は、気持ちを表現することが難しいはず。
これは日本語に該当する言葉があるような気がします。マミラピンアタパイ。
また、赤ちゃんを見ている時のような、「かわいいものを抱きしめたい時の避けがたい衝動」は、タガログ語で「ギギル」といいます。
これは日本語で言う萌えに近いんじゃないでしょうか。重なり合う部分はあると思う。
一方で、Hypocognitionへの反応が逆方向にふっきれると、今度はHypercognition(過認識)という状態になる可能性があるとのこと。
Hypercognitionて「新型うつ病」みたいなやつですかね。昔はそれを表す言葉がなかったけど名前が付いたら扱えるようになって増えちゃったという。
結局は程度問題なんじゃないですかねーと言う気も。タヒチみたいに悲しみに相当する言葉がないとちょっと困る気もしますが、日本語で言う「幽玄」の感情を翻訳できなくても別に困らないのではないでしょうか。HypocognitionとHypercognitionはひとつの概念の両面なので2つも言葉を作らなくてもいいのでは。
しかしHypocognitionってメタな概念ですよね。語り得ないものに名前を付けたので語り得るものに変わってしまった。タヒチの人にもそれってHypocognitionって言うんですよって言えるようになってしまったという。