すべての夢のたび。

1日1記事ぐらいな感じでいきたい雑記ブログ

立場を意識して語るレイプ妊娠中絶

「“レイプによる妊娠”の中絶」には3種類ある。

  1. 誰かが私をレイプして妊娠、の中絶
  2. 私が誰かをレイプして妊娠、の中絶
  3. 誰かが誰かをレイプして妊娠、の中絶

「“レイプによる妊娠”の中絶」の話をするときには、自分および相手がどの立場から話しているのかを意識する必要がある。ぼくは3番は興味がない。どのくらい興味がないかというと、ニュースの中の殺人や戦争や災害、そういったものたちと同じレベルだ。そして空論になりやすいのも3番だろうな。1番は無理。子宮がない。自分より力のある者に襲われる、という場面までは想像できても、それによる妊娠を想像することは困難だ。エイリアンかなにかに産み付けられた卵が体の中で成長していくようなイメージだろうか? ということで2番が残るのだが、これも、しないだろうなぁ、で止まってしまう。ぼくは女性をレイプする自分を想像しにくい(想像の中でもそんな自分を見たくない、というあたりが本音か?)。それに「レイプした側」はその先の話なんてどうでもいいだろうし(いや……どうだろう? ここはわからないな。怖ろしいけど)。

女性は1番を想像できるだろうからこの立場から話す人が多いのではないか? 対して多くの男性はおそらく3番だろうから、これでは議論は噛み合わないだろうなぁ。自分の彼女/伴侶や、もしいるならば姉妹、がレイプされて妊娠した、と考えれば、すこしは女性の立場から考えることに近づけるのではないだろうか? (「お兄ちゃん」は(義?)妹がレイプされて妊娠させられたらどう振る舞うのか?)


中絶についてはこのブログでもほんのちょっと取り上げたけれど、正直、はてブ近辺で流行っているからネタにしてみたという面が大きい。フェミニズムにも大した関心はないし(てか用語が難しくてさっぱりついていけない)、痴漢やら賃金やら育児の話なども「そんなに大変なのか〜」と思う程度で終了だ。が、ぼくは女性が好きだ(一部だけど)。なので、味方をする。自分の好きな/信頼できる女性の言うことをほぼそのまま受け入れる。「心が動かされたから」そうするのでなく、「そうするべきだから」そうする。優しいからそうするのでなく、優しくするべきだからそうする。なるほどなぁ、これが道徳か、と思った。みちアキは道徳とはなにかを学んだ、と感じた。そしてぼくは社会などは((一部の)女性に比べ)割ととどうでもいいと思っているので、社会的な道徳からは外れた言動をするのだろう。

というか当事者性? もし中絶が殺人であるのなら一番の当事者は胎児だろう。胎児は「殺されたくない」と思っているのか? 乳児幼児にアンケートして胎内記憶でも調査すればいいのか?


でもって、「なぜころ」もきっと3種類あるのだ。

  1. 誰かが私を殺す場合
  2. 私が誰かを殺す場合
  3. 誰かが誰かを殺す場合

切実度でいったら3<2<1だろう。ゲームとしての「なぜころ」なら3番であって、まぁこれは楽しいものだけど、ぼくの関心は1番にシフトしつつある。2番は、まぁ、レイプの話と同様、やらないだろうなぁ、と多くの人が考えていることでしょう。

天気予報を見るたび思い出せ

ぼくーのなーまえーは せーしっ
ぼくーのなーまえーは らーんしっ
ふたーりあーわせーて じゅーせいーらんー♪
きーみーとぼーくとーで じゅーせいーらんー♪


……とか唄いませんでしたか? 唄いませんでしたか。そうですか。受精の仕組みとか習うの小学校でしたっけ? 中学校? どっちにしろバカだったらしい。たしか同級生が唄ってた。卵子が「僕」? まぁ気にしない。この先の歌詞はありません。


中絶は殺人って言うんなら胎児は人ってことだよなぁ。胎児が人なら受精卵も「人のようなもの」だよなぁ。いったいいつからそれは人になるんだろうなぁ。それなら精子や卵子も「人のようなもののようなもの」だよなぁ。すると避妊は「殺人のようなもののようなもの」かなぁ。“ごっくん”してもらったら大量殺人(のようなもののようなもの)かなぁ。だからキリスト教は自慰行為を罪としてるのかなぁ。つーか精子より卵子の方がぜんぜん数が少ないんだから男性より女性を殺す方がずっと罪が重いんじゃないだろうか。とかいろいろ考えてました。