すべての夢のたび。

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くらいミライをのぞいてみよう

なぜ、その子供は腕のない絵を描いたか

なぜ、その子供は腕のない絵を描いたか

タイトルに惹かれて書店で少々立ち読みし、慄然。現実はこんなところまで来てしまっているのか、と。著者の言うとおり、子供の学力低下なんて些細な問題かも知れない。なんだか、もう手遅れくさい…って気もします。

 それは一枚の絵からはじまった。6歳の女の子が描いたものだった。自画像だという。けれどそれがどうしても、女の子の姿には見えないのだ。髪には赤いリボンが結ばれている。顔はふつうの女の子だが全体のバランスが崩れていて、じっと目にしていると落ち着かない気分になる。
 理由はすぐにわかった。両腕を付け根部分からすっかり描き忘れているのだ。裾拡がりの青いワンピースから2本の足がまっすぐに伸びている。首はキリンのように長い。これではどう見ても、自画像には見えない。
(中略)
 おかしな絵を描くのは女の子ばかりではない。ある男の子の描いた絵は、ぼくにとってはまったく意味不明だった。お絵かきでだされた課題は──積み木遊び、である。けれどどれが積み木で、どれが本人なのか、すぐさま判別がつかない。黒く塗りつぶされた塊がいくつかころがっているだけだ。なかには黄色い十字架のようなものもある。その上には真っ黒いボールがのっていた。それがどうやら人間、らしいのだが……。
(中略)
たとえば、「お母さんの顔」という課題で描かれた絵には首から下がすっぽりない。ギロチンで切断されたような顔だけが、画用紙にころがっている。文字通り首無し人間。気味が悪い。しかも顔の「部品」がすべてそろっている絵はほとんどない。鼻が欠けていて、顔の中心が空白になっている。眉がないのはあたりまえで、そしてほとんどの絵に、耳がない。

自分が子供のとき、どんな絵を描いていたか覚えているでしょうか? このあたりはまだ序の口で、とんでもない例がどんどん出てきます。

川を描いて、と言うと、「四角い川」を描く子供。それはプールでしょうと言うと、川だ!と主張する。護岸のコンクリと橋に囲まれた川しか見たことがないのかと思えば、よくハイキングに行く子や自然の残ってる地方の子の絵も似たようなもので、さらに最近の主流は「丸い川」らしい。画用紙に描かれたいくつもの水色の円。

三角形が描けない子供。三角形の見本を模写させても、楕円になったり長方形になったり、ただの線になってしまう。遠足の想い出を描いてと言うと、画用紙の真ん中に茶色の丸。それはなに?と聞けば「唐揚げ」だと言う。なんで?と聞くと「お弁当」。それが「遠足」なのか?

ベイブレード(キーワード参照)で遊ぶ自分を描いた子供。やっぱり腕がない。でもコマを回すヒモがあるのだから、腕の描き忘れに気づくだろう、と見ていると、迷ったあげく、ひょいと、お腹のあたりにヒモをつなげてしまった。


いったい、彼ら・彼女らの見ているものはなんなのか? ショック故に少々引用が過ぎました。こんな例が大量に挙げられていて、読んでいるうちにどんどん暗澹たる気分になってきます。なんで現在の幼児はこんなことになってしまったのか? 著者は幼児教室の先生や母親たちへのインタビュー、過去の育児書や育児雑誌の調査、各種のデータやアンケートの結果から原因を探り出していきます。そして、「甘い育児」(「スキンシップ偏重」「褒めすぎ」「子供の関心を惹き衝突を避けるための迎合」)や、「群れ遊び機会の欠落」(子供を狙う凶悪犯罪が増えたため外で遊ばせなくなり、「公園デビュー」も既に死語になりつつある)などに原因があるのではないか、と結論づけています。

著者の論証は非常にていねいであり、結論はそれなりに納得がいくものです(原因から現象へ至る過程は、専門家によるさらなる検討を要しますが)。しかし、現在起きているこれらの現象については、政府機関等でより詳細な調査を実施し、早急に対策を打たないと、本当にまずい未来がやってくるのではないかと危惧します(いや、残念ながら一部は、もうすでに事後処理が必要なようです)。


最近読んだなかでいちばん衝撃を受けた本です。この子供たちはちゃんと人間に成長できるんだろうか?