すべての夢のたび。

1日1記事ぐらいな感じでいきたい雑記ブログ

手ごわい本だったんです

頭の中がまだ整理できてないのですが(いいわけ)、しばらくまとまりそうにないので紹介してしまいます。


自我の哲学史 (講談社現代新書)

自我の哲学史 (講談社現代新書)

デカルト、カント、ライプニッツから
ハイデッガー、レヴィナスまで…
宮沢賢治や西田幾多郎の自我論とは?

日本人に自我はいらない!


オビはこんなふうです。内容を思い切り要約すると、「西洋の自我とはこうであった(対して、日本はこうであった)。西洋の自我は日本にはなじまない。が、どうすればいいのかはまだよくわからない」と、こんな感じになります。


第Ⅰ部「西洋近世哲学における自我」と第Ⅱ部「自我のゆくえ」にわかれてます。じつはこの第Ⅰ部を読むのにものすごーく時間がかかりました。難しいんです。ちょっと読むとメゲてしまうので、1週間以上費やしてます。買った以上は読まないと、っていうMOTTAINAIな性格です。そして、苦労して読んで、内容はほとんど覚えていません。

デカルト、カント、ライプニッツ、キルケゴール、ニーチェ、ヤスパース、ハイデッガー、ブーバー、レヴィナス。第Ⅰ部に出てくる主たる人名です。たぶん「そうそうたる」面々なのでしょうが、「何をチマチマしたことにこだわってんだろう?」という感想になってしまいました。著者の酒井潔さんは、西洋的自我を「主体的、連続的、同一的」という言葉でまとめていらっしゃいますが、多分これが8-9割を言い尽くしています。そうそうたる面々は、「自我とはこういうものだ」の説明に、残りのほんの1-2割の細かい部分で、なんとか他の人と差を出そう、差を出そう、とこだわっているようにしか見えないのです。そして、その1-2割はたぶん、頭のいい人同士の会話でしか必要ないものです。西洋的自我は「主体的、連続的、同一的」、これでおおむねオーケー。


対する第Ⅱ部。こっちはあっさり読み終わってしまいました。まぁこちらに収録の「宮沢賢治の自我論」がいちばん読みたかったので、読む姿勢も変わったのでしょうけど。

わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといつしよに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です
(ひかりはたもち その電燈は失はれ)


「自我も賢治の手法にかかれば、心に次々と浮かんでは消えゆく心象の一つにすぎない」として、著者はこの『春と修羅』の冒頭から、宮沢賢治の自我(わたくし)に対する考えをくくりだしていきます。強引じゃないの?と最初は思いましたが、ここでの著者の辿り方はほんとうに丁寧で、なるほどなぁとうなりました。その結果としての「賢治の自我論」は、スッとこころに入ってくるものでした。

いまにも消え入りそうなかよわい電燈、それが自我の現象であり、心象に写った自我の姿である。しかもそれは単独でははっきりしない。まわりの物と一緒にかろうじて、それも「せはしくせはしく」「明滅」する電燈にすぎない。「せはしく」という形容は自我からあらゆる連続や持続を拒否する見方を示唆している。だがそれでも自我は無ではない。私は自存するものではないかもしれないが、現れていることまでは否定できない。自我は、「いかにもたしかにともりつづける」のである。


部分を抜き出してみましたが、つまり、宮沢賢治的自我は、西洋的自我の対極にあるようなものです。そして、わたし(みちアキ)の今のセルフイメージは、これにかなり近いのです。

わたしは文章によって一人称を「わたし」「ぼく」その他に使い分けています。それは、半分は文のフンイキに合わせるつもりで変えているのですが(そしてブログが記事単位で読まれるものである以上、特にブログ内で一人称を統一する必要性も感じない)、もう半分は、そもそもふだん「“わたし”はいない」からです。わたしは今、極端に人付き合いが少なく、会社外で会った知人は今年はまだ3人(両親と別居中の奥さん、これって知人?)だけです。基本的に帰宅後は音声による会話はしません。電話も来ないし掛けないし。だから会社でちょっと喋りすぎると、すぐノドを痛めるんですよね。

話がそれました。そういう「わたし」なので、一日のうちいちども名前を呼ばれないことなんてしょっちゅうです(会社では、打ち合わせ以外は基本的にひとりで仕事をしてます)。すると、「自分が誰であるか」なんて忘れてしまう。気にもならなくなってしまうのです。わたしが「わたし」を意識させられるのは、会社と、ブログの記事を書くときだけです。ふだんはわたしはいないのです。


……えーと、著者は、西洋的自我は日本人に馴染まない、と言っています。それはたかだか100年前に輸入された概念であるから、と言うのです。それまでは、賢治的とは言わないまでも、自我とはもっとあいまいなものだった。しかしそれでは、なぜ馴染まないのかの理由にはなっていません。というわけで、ここからは本から外れます。本に載ってない、わたしの考えです。


おそらく、馴染まない理由の大きなひとつは、言語の差です。あちらさまの言葉と違い、日本語の一文が成立するためには、主語はいらないのです。述語だけでよい。対して、向こうの多くの言語は基本的に主語が必要です。文章には主語が必要であるということをまったく疑わない。日本語を研究するあちらの学者は“日本語の仮想主語”なんて概念を持ちだしてきたりもしますが、そんなものは日本語には必要ないのです。(このへん、他のアジア系の言語では主語は要不要どちらか、調べる時間があればよかったのですが)

思考は「脳内のひとりごと」です。そこで、「主語が不要な言語で思考する」場合と「主語が必要な言語で思考する」場合は、形成されるセルフイメージに大きな差が出ると思います。日本人は「僕は喉が渇いた」「私は疲れた〜」なんてひとりごとは言いません。しかし、英語は「アイなんとかかんとかトゥマイセルフ」という文章は実に普通に使われます。ここですでに、西洋では「自分」が、“自我(アイ・する側)”と“自己(マイセルフ・される側)”に分裂してしまうのです。自我と自己の差なんて、わたしたちは意識しませんよね? そういう人たち向けの自我概念を強引に適用することにより、日本人は疲れちゃってるんじゃないか?

西洋人はおそらく「わたし」「わたし」を常に意識しているのです。それがきっと「個人主義」ってやつにつながる。日本人は「疲れた〜」としか言わない。誰が疲れたのか? それは言わない。日本人は会議をしても「いいね、是非やろう!」(誰が?)「やりましょう!」(だから誰が!?)ということになる。そう、「実名で書け!」というのもまさに、「主体的(言ったことに責任持てよ!)、連続的(ハンドルネーム変えるな!)、同一的(前と言ってること違うじゃん!)」であれ、という西洋的自我の要請なのです。

というあたりでごにょごにょ。まだ思考がとっちらかったままです、すみません。


著者は最後に、「もう西洋的自我はやめよう」という提案をします。でも現在の日本を含む西洋的社会ではそれは必要なものなので、仕方ないから、会社(社会)では仮面を付けよう、帰ったらはずそう、と言います。これだけ見るとよくある話で、建前と本音?みたいなふうですが、そういう生やさしいものじゃなく、「会社を出たら西洋的自我をやめよう」というのです。これは過激だと思う。つまり、「なりたい自分になれるよう努力する」「自分探し」「自己啓発」「自らの意志で考え、行動する」、そういった、いままで「正しい」とされていたものをやめよう、日本人には向いてないから、という話をするのです。いやそこまで言ってないかな。でもそんな感じ。そして仮面の下には、実は顔はないよ、「ほんものの自分」なんてのも幻想だよ、と言います。青い鳥を探して探して戻ってみれば元の鳥もいませんでした。じゃあどうすればいいのか? わからん。それはこれから100年とか200年とか掛けて日本人が探していく課題だよ。そういう本です。ごめんやっぱりちょっと違うかもしれません。