すべての夢のたび。

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イリヤの向こう

『レヴィナス入門』より、レヴィナスの言う「イリヤ」(il y a)についての記述を引用してみます。著作『時間と他者』の一節とのことです。

いっさいの<もの>、存在者、人物が無へと帰したさまを想像してみよう。われわれは純粋な無に出会うことになるのだろうか。すべての<もの>を想像のなかで破壊したのちにも、なにものかでなく、ある(il y a)ということがらが残る。いっさいの<もの>の不在が一箇の現前として回帰する。つまり、すべてが失われた場として、大気の濃密さとして、空虚の充実として、あるいは沈黙の呟きとして立ちもどってくるのである。<もの>と存在者とのこうした破壊のあとには、非人称的な、存在することの<力の場>がある。それは主語でもなく、実詞でもない、あるものである。


レヴィナスは、Mの言うところの「何か」から全てを取り去ると、端的な「〜がある」が残る、と言っているようです。で、Mの言うところの「真の意味で『ない』もの」は、そこからさらにイリヤを取り去ったものだと考えて、だいたいいいんじゃないかと思います。(“だいたい”というのは、「なぜ最後まで残るものがイリヤであるのか?」「なぜレヴィナスはイリヤを取り去らないのか?」がMにはわからなかったからです)

『レヴィナス入門』での『時間と他者』からの引用は、もうちょっと続きます。ここまでは、レヴィナスの言うことは了解可能なのです。ここから先を、レヴィナスは、なんだか不穏な言葉を使ってイリヤを説明していく(のでわからなくなる)のでした。