すべての夢のたび。

1日1記事ぐらいな感じでいきたい雑記ブログ

ここにいる

今日はアイソレーション・タンクについて書く、と言っておいてアレなんですが、まとまった時間が取れなかったため延期します。すみません。代わりに、その前に、まず、「なぜいまタンキングなのか?」ということを。

ときどき書いてるこの“群青色”とかいうカテゴリーの文章に、「<わたし>とはなにか?」みたいなシリーズがあります。まだ続くんですけど、いま一時止まってます。今回のタンクは、それ系のちょっとした実験・実践ですね。


「<わたし>がここにいる」という感覚、これについて考えてみます。まぁほとんどの人は、この文章をどこかのPCの前に座って読んでいることでしょう。なかには電車の中で携帯とか? そのときの「ここにいる」という感じ。それはどこから起きてくるのでしょうか?

多くの人は、「自分」は「脳」だと考えていることと思います。「心は脳にある」って言ってもいいか。また、ときどきはそれは「胸」でしょうね。なにかこう、「どうしよう、どうしよう?」みたいな状態のときとか。あるいはまれには「おなか」。腹を据えて(って言いますよね)、「よし、行くぜ!」みたいなとき。ごくまれには「手」のこともあるんじゃないかと思います。好きで仕方ないような相手にはじめて触れるとか、ですか? (もうないですけどねぇ、そういうことは)

そういうことを考えていったとき、「ここにいる」という感じは、身体感覚と多分に関係しているんだろう、と考えたわけです。そのとき意識を集中してなにかを感じ取ろうとしている身体の部分。あるいは無意識に力が入ってしまっているような部分に。そして、緊張もなにもないごく普通の状態であれば、目や耳や口や鼻など、単に「感覚器官が集中している」という理由により、自分は「両目のうしろ、両耳のあいだ」にいる、と感じてしまうのではないか。実際、そのような位置に自分がいると考えねばならない理由はなにもないわけです。もし非常によくできたヴァーチャルリアリティが五感のすべてをネットワークしてくれるなら、「心」と「身体」は別の場所にあってもいいんですから。(とはいえ現実的には、いまの人間の身体は、「自分がここにいる」と感じる位置と脳の位置は一致しているのですけれど)


そこでヘレン・ケラーの登場ですが。目が見えず耳も聞こえず、主として手先の感覚に頼るしかない彼女であれば、必然的に他の人と異なる「ここにいる」という感覚を持つのではないか?と考え、『奇跡の人』を読んでみたのです。が、「自分がどこにいると感じるか」みたいなことをほのめかすような記述はどこにもでてきませんでしたねぇ……。ただの感動的な、とてもいい話でした(充分じゃねえか!)。特にヘレンが初めて抽象概念を理解するあたり(しかも「愛」という言葉ですよ?)は震えがきます。世界初の人工知能の自伝を読んでいるようでした(ってマジ怒られそうですけど)。


で、ヘレン・ケラーによる仮説の検証に失敗したので、今度は自分でやることにしたわけです。アイソレーション・タンク。感覚遮断機です。体温と同じ温度の液体が入ったタンクにぷかり浮かんで完全密閉。音も光もなく、触覚もほとんどない。そういう状態に置かれたとき、わたしは<わたし>がどこにいると感じられるのか? それを自分自身で確かめてみるために、日本に2台しかないアイソレーション・タンクのうち1台があるという“ecco”に電話をしたのです。


つづく(はず)。