すべての夢のたび。

1日1記事ぐらいな感じでいきたい雑記ブログ

わたしはいらない

たとえば陰謀論者が「ユダヤの陰謀だ!」「フリーメーソンの陰謀だ!」「ピラミッド委員会の陰謀だ!」と、世界をなんでも陰謀で語ってしまうように、わたしも、あらゆる問題を「わたしとは何か?」という問いとして考えたがります。例を挙げれば、ちょっと前に記事にしたスタンドアローンコンプレックスの話、のまネコやら末次由紀さんやらの話は、そもそもオリジナルとは何か?という問いとして考えることができます。クローンの問題、チンパンジーと人間の遺伝子が99%同一という話、人工知能なんかも「人間って何?」につながってくるし、拉致問題や残留孤児問題、在日問題なんてのもモロに「私は誰?」ですよね。そんなふうに、現代はソレが問われてる、もーそこら一帯でのべつまくなし問われまくられてる時代なんだよ!と(わたしは)考えているわけです。


そういえば、以前に「哲学の全問題は結局次の3つに集約される。世界とは何か・私とは何か・神とは何か」ってのを書いて、誰の本だったっけかなーと思ってたんですが、竹田青嗣さんだったみたいです(たぶんこれ asin:4480081097)。で、この3つの問いって実は同じなんですよね。「世界」と「私」は交歓しあうものだから、世界を考えることは私を考えること、私を考えることは世界を考えることにつながる。で、それらの有り様、それはいったいなぜそうあるのか?を考えるなら、神とは何か?につながるわけで。だからどれから考え始めてもいいんですが、わたしはまぁ「私」が身近かなぁ、と思います、やっぱり。


で、そのわたしが「わたしとは何か?」を考えるときに取る手法のひとつが、「わたしでないもの」をどんどん「わたし」から切り離していくやりかたなんですけど、最近の世の中もソレだよなー、って思います。わたしの必要とされてなさ、ったらすごいですよ。多くの人が用があるのは、実はこんなものです。

  • わたしの住所やら名前やら
  • わたしの肩書き(←わたしのはたいしたことないですが)
  • わたしの電話・携帯の番号
  • わたしの運転免許証や健康保険証
  • わたしのクレジットカード番号
  • わたしの住民票やら戸籍謄本

随時追加します。ネット関係だとわたしのメールアドレスとか、わたしのIDとパスワードとか? それとかわたしのblogとか? blogもますます記事単位で読まれるようになって、「作者本人」は関心を持たれなくなってきてる感じもしますね。わたしの血液や骨髄液が必要な人もいるでしょうし、あるいはもっとダイレクトにわたしの財布とかおサイフケータイとか銀行口座とか臓器とか指(指紋認証用)なんてのに用がある人もいるかも知れません。

まぁこんな感じ。もういまどき、あからさまに「わたし本体」は必要とされてないのです、ほとんど誰にも。そのうえ世の中はまだまだ〈わたし〉を外部化する方向へ向かってるのがまた面白いです。〈わたし〉が拡散し、あちこちに痕跡を残していくようになる一方で、本体に残っている〈わたし〉はどんどん小さくなっていく。いったいあと何が残っているのか? アタマ? IMEとエディタがなければ何も書けず、ネットに接続されてなければ仕事もままならないアタマが残ってるって? 思考も記憶もどんどん外部化進行中。PC起動不能で、HDDがぶっ飛んで、さぁ大弱り?ですよね。


blogの更新が止まっても、「更新止まってるなー」だろうし、近所で姿を見かけなくなっても、口座から家賃光熱費が落ちている限りはなかなか「発覚」しにくいでしょう。そして「同じような人なら他の人でもよかった」と言われてしまったりする。こりゃー、自殺するよね?って思います。だってわたし/あなたは必要とされてない、どう見ても。どうしてもわたし/あなたでないとダメってことないですもんね。「かけがえのない自分」なーんて「嘘」でほとんどの部分が「交換可能」ですし。きっと生き甲斐とか見つけにくいご時世なんだろうねーと思います、多くの人には。それで自分探しになるんですね。

でもわたしみたいな「考え事が趣味」の人間には、こんな楽しい世の中はないわけです。あらゆるものごとが〈わたし〉を照らし出し、〈わたし〉の領域がどんどん狭められて純化されていく。むかしは座禅とか瞑想とか厳しい修行とかしないとそういう境地へは行けなかったわけですけど、いまはある意味世の中全体が、そういうことを考えさせるように仕向けられている(とわたしは考えたがる)のです。で、そうやって〈わたし〉を追い詰めて追い詰めて最後に残るもの。何が残るのか? おっと、思わずうっかり答えを書きそうになってしまいました(知ってんのかよ)。