すべての夢のたび。

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Color is the sky.

以下、『ウィトゲンシュタイン・セレクション (平凡社ライブラリー)』に収められていた『論理哲学論考』の抜粋より引用します。「論考」は難しいので全部はわかりません。しかし、わかる部分もあります。

3.22 名は命題において対象を代表する。
3.221 対象は名指すことしかできない。記号がそれを代表する。私は対象について語ることができるだけで、対象を言い表すことはできない。命題は物がいかにあるかを語ることができるだけで、物がであるかを語ることはできない。

3.26 名は定義によってそれ以上分解することができない。名は原始記号である。

3.3 命題だけが意義を持つ。命題という連関の中でのみ、名は意味を持つ。

よく、「科学は、それが何かを説明することはできるが、それがなぜあるのかを説明することはできない」みたいなことが言われます。が、これは科学側にかなり譲歩した言い方で、実際は「なぜ」どころか「それが何か」さえも科学には説明できないのです。これは、非常に簡単な話です。


物質を構成する最小単位、いわゆる素粒子について、当初原子というものが考えられました。その後、原子には構造があることがわかり、中には陽子と中性子(と電子)というものがある、ということにされました。さらに、これらにもまた構造があり、数種類のクォークからできている、と言われています。現在はクォーク(とレプトン)が物質の最小単位である、いや違う、とかモメてるところじゃないかと思います(詳しくは知りません)。

ここで問題なのは「では、最小単位であるクォークとは何か?」と問うとき、わからない、としか答えようがないことです。最小単位ということは、分解できないということです(3.26:名は定義によってそれ以上分解することができない)。分解できないということは、それは構造を持たないということです(もしクォークが球状だとしたら(??)、それは中までみっちりクォークが詰まっており、そこにはクォークでない部分はないのです)。つまりそれは、ただクォークだ、としか言いようがないものなのです(3.221:命題は物がいかにあるかを語ることができるだけで、物が何であるかを語ることはできない)。言えるのは、複数種のクォーク同士の関係や、クォークが集まったときにどうなるか、そういうことだけです(3.3:命題だけが意義を持つ。命題という連関の中でのみ、名は意味を持つ)。物質の最小単位は、それが何かを説明できない。説明できるとしたら、それは構造を持っており、従って最小単位ではない。


モノとモノとの関係にこそ意味があり、モノ単独では意味はないのです。辞書を引くと経験することですが、○○という言葉を引くと、××のこと、と書いてある。××を引くと○○と書いてあり、ループしている。○○という言葉は○○以外の言葉が存在して初めて意味をなす。ひとつの言葉は、多面体の頂点のようなもので、頂点そのものに意味はなく、他の頂点との関係(他の頂点へ伸びる辺)が大事なわけです。というかですね、恐ろしいことに、世の中には「名詞がない言語」というのが存在しているのですよ。それはいったいどうやって、わたしたちが名詞で呼んでいる物を語るのか?というと、例えば「教会」は、日本語に無理矢理訳せば「宗教的に家している」、「商店」は「商業的に家している」というふうになるのです。諸行無常、往く川の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず。で、「何」が「家して」んの〜? それはまた次回に。