すべての夢のたび。

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傲慢さを認めつつアレすること

先日の、knakanoさんの日記へのkiya2014さんのコメント。knakanoさんがレスして、kiyaさんがもういちど返したソレから引用。

…傲慢を認めて、苦しみを振りまきながら生きる、確かにそれしかないですよね。ただ、やはり気になるのは、その傲慢さを認識しつつなおも恋愛することがどのようにして可能になるのかということです。せめて、(他者を深く傷付けてしまう可能性がある)恋愛はしないようにするのが、私たち醜悪な存在の最低限の責務ではないでしょうか。傲慢さを認めることと、その傲慢さに対して開き直ることは違うのではないでしょうか。そんなことを思いました。


kiyaさんの恋愛に対する考えがはっきり伺えて面白かった(他でもいろいろ書かれてるのだろうけどずっと追っかけてるわけでもないので(つうかどこにでもいる人を追うのは大変ですよね?))。結果、相手を傷付ける、ことも恋愛にはもちろんあるでしょう。とはいえ、「表面にそっと触れただけ」から「傷」まで様々なレベルがあるだろうし、相手をなにも変えない恋愛なんてないだろう、とも思う。でも傷にしか見えない傷もやっぱりあるわけで、恋愛ってそういうものだよしょうがないよ?って逃げられもしないか。

でもkiyaさんの文の「恋愛」を「生存」に置き換えても、文は成る、と思う。単に生きてるだけでも確実に誰かを傷付けてますよね。

  • その傲慢さを認識しつつなおも生存することがどのようにして可能になるのか
  • (他者を深く傷付けてしまう可能性がある)生存はしないようにするのが

「生存はヨシ、恋愛はダメ」であるとしたら妙だ、というか、根底がコケてんだからその上で何言っても仕方なくない?ってなりそう。そこはどう回避されるんだろう。

ここで自分が傲慢であることを認識し、受け入れ、かつなるべくそうはならないようにするのが良い態度、であるのはわかる。けれどぼく自身はkiyaさんの分類では「開き直り派」だろうなぁ。たしか前もkiyaさんからそこ突っ込まれたし。ぼくは他人と自分を秤に掛けなくてはいけない場面では自分の都合を優先する。自分の都合「だけ」を「常に」優先する、と言ってるのじゃなくて、もうギリギリでどっちかしか選べません、ってときには自分を選ぶということを知っている、という感じですけど。ってか実際にはもっと奔放に他人を傷付けて回ってますね。