すべての夢のたび。

1日1記事ぐらいな感じでいきたい雑記ブログ

信仰告白

ぼくは、この世界には、なにか超越的な存在、いわゆるところの神、が存在していることを信じているようです。


たとえば、合格発表の日に自分の受験番号を探すときや、そうそうないけど絶体絶命のピンチのとき、休日の午後のカフェで美味しいコーヒーを飲みながら本を読んでて、しかもまだ時間がいっぱいあるとき。そういうときなんかに、「お願いしますッ!」「助けて……!」とか、“いまこの瞬間をなにかに感謝したくなるような気持ち”になったりする。でもそれって、だれに?なにに?なんだろうかって。逢えない遠いところにいる大切なひとの無事や幸福を願い、祈る。直接に「元気でね」などと言うのとはまったく違うそれは、いったい誰に何に託されているの?とか。そういった自分の行動をかえりみて冷静に判断すると、この人間は心の深い部分ではなにかそういうもの、いわゆるところの神、の存在を信じているのだろう、と、結論せざるを得ません。

うん。たぶん、いま大地震が来て家が潰れそうになったらやっぱり助けて!って思うと思えるし、現に既にある自分の幸福を、始終、なにかに感謝しているし。理性のレベルでは「神」については不可知論者(それはいるともいないとも言えない、知り得ない)だとは思うんですが、感情のレベルでは、なんかいる、と思ってるんでしょうね。ヒトの行動は理性レベルじゃなくて感情レベルで起きますからね。とっさの場面で「お願いします!」「頼むから!」と、つい(心の中で)言ってしまう、あるいは、仕事がうまくいって/日々平和で、“ありがたい”なー、とかついつい思ってしまう。それは、その思いの届く先がなにかあると感じているゆえ、なのじゃないかなーと考えています。そういうのが自分の心のなかにあることを見てしまったら、あえて否定はしない。なんかねー、無理に「いるわけない!」とか否定しつつ行くのも苦しいと思う。ぼくの場合は、これは取り消せない深さにある、とはっきり自覚したので、まーなかば開き直っているわけです。ヒカガクテキだなぁ、とか思いつつも。


このこと(超越的な存在を思うこと)が、なにかヒトの遺伝子とかに最初から焼き込まれてる類のものなのか、それとも幼少時の環境や出来事に依存するものなのかは、自分にはわかりません。ぼくの両親はそう信心深くもなかったし、特定の宗教を信仰してもいませんでした。まぁ普通?だったと思います。ときどきちょっと遠くへ買い物に行くと、そこの近くの神社にお参りするくらい。その程度でした。近所に○○○○の人がいて毎日お経が聞こえてきたりなんか集会に誘われたり、親戚に○○宗の人がいてなんか「祭り」に誘われたり、そういったことはありましたけど、かえってそれらを一歩退いた醒めた目で見られたことで、バランス感覚みたいのが(そこそこ)身に付いたんじゃないかなぁ。

現在もぼくは、特定宗教の信者であるわけではないです。自分が「存在する」と感じているらしいソレはなにかの宗教の神ではない。むしろふつうにイメージされる神とはかなり違っている。少なくとも人格神ではない。あえて言えば道教の“タオ”みたいなものかと思います。宗教は関係なく、神社に行けば神社のお賽銭箱の上を通してソレに話しかけるし、教会なら十字架を通して話しかけるし、大きな木や岩でもいいし、別に何もないところでもふつうに話しかける。ありがとうございましたーとか(心の中で)言う。宗教によってはみだりにソレに話しかけたりしてはいけないらしいですが、まぁそういうのはどうでも。作法よりも気持ちかなと。ああでももっとちゃんとした人が言わないとなんも説得力ないですけどね。


というふうになんかそーゆーもの、をこのひとはなんとなくぼんやり信じている、らしい。もちろん日常生活で神仏の実在を他人に説いて廻ったりして余計なマサツを起こしたりはしませんけどね。なんとなくぼんやり、ふふーん、それはいる/あるかもね?と思ってて、でも黙っていても社会でふつうに生きていけます(ぼくの信じるらしいソレは(なんともぼくに都合良く)非っ常〜に寛大なのです!)。まぁ逆に無闇に否定して廻ったりもしませんけども。いるもいないも証明も反証もできない存在を、いない、と“信じて”断言するのは、それほどカガクテキ態度とは言えないんじゃないかなー、と思う。ぼくはソレは存在するともしないとも言えないと考えてます。だから理性レベルでは判断を保留する。ただ、存在したほうがいろいろ楽しそうだし、存在しても別に困らないから、もし存在するならそうするであろう振る舞いが自然になされている、そんなところですね。

こんなブログ書いてんのに?とか言わないように。ウチのヤツはすっごく心が広いの! もしいればですけど。