すべての夢のたび。

1日1記事ぐらいな感じでいきたい雑記ブログ

たとえどんなにエホバが間違っていようとも、私はエホバの側に立つ

「エホバの証人」だと語呂が悪いので略したら、なんかとても不遜な感じになってしまいました。

痛いニュース(ノ∀`) : 息子への輸血を「宗教上の理由」で拒んだ両親に対し、即日審判で親権を停止

多くの場合、ぼくは「痛いニュース」と意見を共にするものですが、この事件に関してはエホバの証人側を支持します。というかまぁ、ほとんどの人はふつうに輸血支持でしょうね。エホバ支持は難しい仕事だけど、やらなくては。

では、なぜぼくはエホバの証人を支持するのか? その理由は「どんな宗教であっても、その教義が外部の者によって軽んじられることがあってはならない」と考えるからです。その教義がたとえどれほど馬鹿げたものに見えたとしても、です。教義というのはそのように重要なものだと思います。輸血をして子供の命を救った側は、当然「当たり前のことをした」「良いことをした」と考えているでしょうが、それは外部の人間の価値観です。彼らだって、輸血をしなくては子供は死んでしまうかもしれないことくらい解っています。ですが、それでもなお輸血を拒否しているわけです。そのことは、今のこの命よりも重要なものが存在するのだ、という彼らの価値観を示しているものでしょう。

輸血をした側は、1人の子供の命が救われた、よかったよかった、で終了かもしれません。しかしエホバの証人側に立って考えてみるとどうでしょうか。ここからは、詳しくはわからないのでぼくの想像になります。おそらくそこには「血を穢されてしまった子供」と「大事な子供を異教徒のなすがままにされてしまった両親」が、いるのではないでしょうか。穢された血を“回復”する方法がエホバにあればいいのですが。両親は、子供を守れなかったことで自分を責めているかもしれないし、子供に死後の復活の可能性がなくなってしまったことを嘆いているかもしれません。それこそ今後実際にネグレクトが起きてしまう可能性さえあるのではないでしょうか。そして、エホバの証人ぜんたいとしては、今回の事件を「コミュニティへの干渉」もしくは「攻撃」と受け取るのではないでしょうか。


……というようなことを軸に主張を展開していけるはず、なんとかなる、と思った矢先に次のニュースが来たんだった。

痛いニュース(ノ∀`) : 強姦された9歳少女が妊娠、中絶手術→カトリック大司教「中絶は強姦以上の大罪」と医師らを破門

これは馬鹿げてるよなぁと感じた。ぼくの意見は痛ニューと一緒だった。「中絶だろJK……」 そして、困ったことになったと思った。おまえは、どんな宗教でもその教義を軽んじてはならぬ、と言っていなかったか? おまえはどうやってこの「大司教」を弁護するつもりなんだ?

うーん、無理! ってか、弁護したくないよ。というわけで、上のエホバ支持の主張はどこかに欠陥が存在し、根本的に戦略を練り直さなくてはいけないらしいことがわかった。なぜエホバ信者への輸血はNGでカトリック信者の中絶はOKなのか? ぼくはどこでその是非を区別しているのだろうか、探る必要がある。

まず「中絶は強姦以上の大罪」はそもそも教義なのだろうか、ということがある。記事を見た感じでは、このことについての意見は割れている。「大罪」は大司教の私見にすぎないのではないのか。そして、コミュニティ同士の衝突である輸血拒否事件と異なり、強姦中絶事件は単なるコミュニティ内部の内輪揉めなのではないか、などとも考えた。さらに、ぼくは妊娠4ヶ月の胎児の命も1歳児の命もその重みに大差はないと考えているのではないか、と思い至った(ぼくは実際そう感じているらしい。そしてそれはいささか問題があるようにも思える。が、では胎児の中絶はOKで1歳児への輸血拒否をNGとする論拠はどこにあるのだろうか)。

などといろいろ考えてはみたものの、どれもしっくり来ず、腑に落ちないのだった。さらに考えを重ね、そしてやっと自分なりに納得できた結論は、こうだ。

ぼくは、エホバの証人の事件も、カトリックの大司教の事件も、「教義」が「倫理」に勝てなかった事件と考えていた。だが違うのだ。前者、輸血を拒否した両親の親権停止は、「教義」が「法律」に負けた事件なのだ。ぼくのなかではこれらの重みは「倫理>教義>法律」と位置づけられており、宗教の教義がその下位である世俗的な法律(ごとき)に打ち負かされたことを不快に感じているらしいのだ。

主治医の側が倫理ではなく法に基づいて行動していると主張する根拠はここにある。もし、1歳男児の命がほんとうに大事なのであれば、家裁による親権停止などを待たずにさっさと輸血を行ってしまえばよかったではないか。「過去に1週間程度で親権停止が認められた例があるが、即日審判は異例のスピード」だなんて、そんなのは誇るべきことでもなんでもないだろう。もし即日ですら間に合いそうになかったら、目の前の死にそうな子供をいったいどうするつもりだったのだ? 手続きの遵守が命そのものより大事なのか?

輸血を拒否する両親の側は、その主張に実存のすべてを賭している。対する側は、なにも賭してはいない。理屈をこね、責任を転嫁し、お墨付きが出てからやっと事に当たり、終わればきれいさっぱり忘れてしまう。正しいとか間違いではない。正しい宗教などというものは存在しない(そんなものがあれば皆それに改宗すればよい)。ただこれは、圧倒的な力を持つ側が、力なき側を磨り潰した、そういう事件だろうと思う。子供がトンボの羽根をむしる時のように、ヘッジファンドがあらゆる手段で利益を追求する時のように、そこに悪気はないのだろう。自分たちがいったいなにをしているのかという意識もないのだろう。だけどその無邪気さが、不快なんだよ、と、ぼくはそう言うのだ。


最後にもうひとつ。主義主張の異なる相手は、ほうっておけ。一致できる部分だけ仲良くし、それ以上には関わるな。こちら側に実害があるのならともかく(子供1人くらい死のうがたいした話じゃない、とぼくは言っているよ)、害もないのに相手側に踏み込むとしたら過干渉だ。そして、実害があり、やり合わざるを得ないなら、それはもう戦争なんだという覚悟をもって当たることだ。そういう態度のみが、無宗教も含めた宗教間の対立を解消し、いっしょにやっていける可能性を開くものだとぼくは思う。