「死んだら終わり」の世界でどうすれば彼女を救えるのだろうか。
まず最初に「宗教がある」と神がいたり来世があったりして、「死がすべての終わりではない」ということにします。逆にここで言う「宗教がない」とは「死んだらすべてが終わる」ということです。話がややこしくなるので、シンプルにそう取り決めておきます。
パレスチナ・イスラエルあたりの場合、あの人たちは「死は終わりではない」という世界観のなかに生きています。殺るほうも殺られるほうも来世があるというか、むしろこの世が仮初めであの世がほんとうの生ということになっています(その仮初めの世で何をそんなに大騒ぎする必要があるのだか、ぼくにはよくわからないのですが)。だから、彼らの思考様式では、たとえ身内が殺されてしまっても、死んだその人たちは「一足先にあの世に行ったのだ」ということになります。つまり未来の再会の可能性を希望として持つことができ、現時点での悲しみを軽減することができるわけです。
でも、そうでない世界観の場合。つまり「人は死んだら終わり」という世界に住む人の場合、どうなるか。人の生には大ざっぱに言って「生きることそれ自体に意味がある」とする考えや「生きて何かを成すことに意味がある」とする考えなどがあるように思いますが、いずれにせよ、またはこれら以外にせよ、真っ当に生きられて真っ当に死ぬことができたのなら、「死んだら終わり」の世界観であっても大きな問題にはならないでしょう。
真っ当に生きて真っ当に死ぬことができなかった場合、問題が起きます。たとえば、マンションの同じ階の住人に不当に部屋に押し入られて拉致され、人生半ばもいかずに殺されて、死体をバラバラに切り刻まれた挙げ句トイレに流されてしまったような場合です(人間はバラバラにされてトイレに流されるほど自由だ)。ただこの時でも、死んだ本人には何ら問題は生じません。「死んだら終わり」の世界において死んだわけなので、つまりただ終わっただけです。問題が生じるのは遺された人たちの側になります。
件の女性の姉はこう言っていました。
検察官「星島被告にはどのような刑を与えてほしいですか」
姉「死刑です」
検察官「もし無期懲役だったら納得できますか」
姉「納得できません」
検察官「なぜですか」
姉「なんで瑠理香がいなくて犯人が生きているの」
検察官「星島被告が死んだら許すことはできますか」
姉「死んでも許せません。お墓ができたらハンマーで壊しに行きます」
犯人が死刑になったら、その墓をハンマーで叩き壊してやりたい、と(地裁は無期でしたが……)。もちろん、そんなことをしたって何にもならず、気も晴れるわけではないことは、彼女自身を含めたすべての人がわかっているはずです。しかし、このようにしか語れない彼女の気持ちもまた、誰にも了解可能なものではないかと思います。
やりきれないわけです。この「やりきれなさ」に、どう処すればよいのでしょうか。殺された彼女の妹の生、真っ当に生きることも死ぬこともできなかった生とは、では、いったいなんだったのだろうか? なんの意味があったのだろうか? …というようなところで考えがずっとぐるぐる巡って囚われてしまう。こんな状態に、神なしの「死んだら終わり」の世界観を持つ人がなんとか対応する術はあるのでしょうか?
時間が解決する、または、いつでも人は笑うことができる。そのあたりに、「死んだら終わり」の世界でも救いを求めることができるかもしれないな、と思います。どんなに悲しいできごとであっても、時間が経つにつれ、少しずつ落ち着いてそのことに向き合えるようになる(はず)、または、どんなに気持ちが沈みこんでいたとしても、人は、誰かのくだらないジョークとか、誰かが滑って転んだとか、そういうことで、ふと笑ってしまったりする(はず)。そんなあたりに光を見いだせはしないだろうか、なんて思います。遺された人たちが、その後ずっと闇に囚われたままなんてことがあって許されるはずがない、と。
ただ、これらは、そういったことで彼女が救われるわけではなくって、きっとそうなんだと、そう思い込むことでぼくがぼく自身を救っているだけかも知れませんけど。
だからね、たとえこの世界がほんとうに「神なし」であったとしても、偽薬としての宗教は相変わらず有効なんですよ、なーんてつまらないことはぼくは言いません。それは神さまを安売りしすぎでしょう。無神論者がもし神の救いを欲するんなら、部屋の隅でガタガタふるえて命乞いをするようなそんな気持ちで悔い改めればいいよ、それなら赦してやるよと、ぼくは思います(まぁそんな権限はないですが)。そうでなければ、潔くぐるぐるしてるがよいよと。
で、いったいおまえはどっちの世界に住んでいるのか、ですか? 投げたコインは必ず裏か表が出ると、そうお考えでしょうか。バランスを取って縁で立つ奴も、もしかしたらありはしませんかね?