すべての夢のたび。

1日1記事ぐらいな感じでいきたい雑記ブログ

無難にまとまってしまった

先日のエントリ「宗教なしにどうやって彼女を救うか」に、xuraさんから言及をいただきました。

歓楽叶わぬ納骨堂庭園 : 許さないという救いもあるよ

許されたくて許されたくて、精神を壊してしまいそうになりながら己の罪を悔い続けたその人のその相手が、michiaki氏のような人であったのなら、その人は救われただろうか。いや、救われなかっただろうな。他の誰がその人を許してもその人は救われず、許して欲しい人に許されたいと思い続けたその人であったのだが、許されたい相手に許されたとしたら、その人は再び相手を裏切っただろう。一度裏切ったらおしまいだと思う事。次の誰かを今度こそは決して裏切らない為に、その人は許されるべきではないという事。許さない事にはそういった理由もあるという事。それを忘れないで欲しいと私は思うよ。


了解可能です。難しい話ではないですね。

相手から裏切りにあった場合、どうするか。xuraさんは、相手を許したならまた同じことをするだろう、だから相手を許さないことが相手の救いにつながることもあるのだ、と仰います。

でもぼくはmichiaki氏そのものなので、相手を許しますね。そしてそのことによりぼく自身を救います。他人を許さない気持ちをずっと抱えたまま生きることで自分の心身を病みたくないからです。自他ともに厳しいか、ともに甘いか。そういう差かなぁと思いました。もちろんあえて厳しい道を選択する人を尊重はしますよ。

もしまた同じことをされたらどうするのか? ならば、幾度でも許せばよい。ただ、その相手からは離れるでしょうね。許しつつ離れることは可能です。相手が風邪をひいたことにどうこう言ってもしょうがないけれど感染しないように離れる、そんな感じです。

こういった多様性が人間であり、考え方、生き方の差なのだろうと思います。でも、思うに、現にいろいろな考え方の人間がここにはいて、なお世の中はそれなりに回っているのだから、どちらでも別にいいのかもしれません。その程度の差は致命的な誤りにはならずに許容される程度には、ここは豊かな社会なのでしょう。