すべての夢のたび。

1日1記事ぐらいな感じでいきたい雑記ブログ

人を×したい

先日の「人を殴りたくてしょうがない人」の話を読んでいて思い出した。

人を殺したい、と思ったことがある。より正確には、人を殺す経験をしてみたい、というのが近い。殺人事件で捕まってそんなようなことを言っていた高校生が昔いたけれども、うんわかる、と思ったものだった。そういうことを考えたことがある人は、実は少なからずいるのじゃないかと思っている。経験がしたいだけなので、特定の誰かを殺したいわけではない。それは誰でもいいのだ。

しかしふつう、日常の中でそんな経験はできない。もしぼくが人を殺すとしたら、どういう状況でならできるかを考えてみた。まず、そのことによって警察に捕まらないことが絶対必要だ(ここからして、もう有り得ないのだけど)。次に、ぼくが殺す相手が、殺されることを望んでいることも必要だ。そして、その人が死んだことで悲しむ誰かがいないことも必要だろう。などと考えると、たまたま人気のない山中を歩いていて自殺志願の天涯孤独の人に遭遇したとか、そういった“ごく希な”状況でしか起きなさそうだ。

しかし、けれどそんな、人としての属性の剥ぎ取られたような相手を殺したところで、「人を殺す経験ができた」と言えるのだろうか。怪しいものだ。人にはさまざまなしがらみがあり、そのしがらみごとその人を殺すことが、人を殺す経験なのだと思う。つまり結局、そういう経験をするには、件の主婦殺しの高校生のように、なにか(自分の人生とか)と引き替えにしかできないのだろう。彼は「自分にとって人を殺す経験が絶対必要だった」と言っていたけれど、ぼくはまぁ、そこまでではないなぁ、と感じるので、そのようなことはないまま終わるだろう。

でも、たとえば、首を絞めるときの、指が肉に埋まっていく感覚だとか、ナイフで刺すときの、刃先が肉に沈んでいく感覚、腱をぶちぶち切っていく感覚、骨に刃があたるごりっとした感覚、そういうのを、できるだけリアルにイメージする、ということをしてみることはする。してみて、途中で息苦しくなってきて、やめるのだ。で、かんたんに人を殺してしまうようなゲームソフトがあるせいで現実世界で殺人が云々、って話は、まぁうそだよなぁ、と感じる。人を殺すって、そんなやさしい話じゃないだろう。でもそうなのかなー。ゲームがいろいろ勘違いさせてやさしい話にしちゃってるのかな。そのへんは、わかりません。

こういう話は、先に書いたように、わずかだろうけど一定数の人は、考えたことがあるんじゃないかなぁとぼくは思っている。ただそれを口にするのはいろいろまずいので語らないだけであって。……というぼくのこの考え自体がひどい妄想で、そんなふうに思っているぼくがおかしいのだろうか?(しかし、同じようなのが少なくともひとりはいたわけだ、件の高校生として) でももし、遠い未来、技術が発達して、人とまったく見分けのつかないアンドロイドだかができたとしたら、それを「殺させる」商売ってのは、きっと誰かがやりそうな気がするんですよね。殴られ屋ならぬ。