すべての夢のたび。

1日1記事ぐらいな感じでいきたい雑記ブログ

世界はどういう理由でここから開けているのか?(極個人的な疑問)

永井均さんの『私・今・そして神 開闢の哲学 (講談社現代新書)』を今日、読み返していました。ま、その途中で"破"を見てしまったので中断してますけどね。

この本には「開闢の哲学」という副題がついています。ここで言われている開闢とは「世界は"わたし"から開けている」というような意味と理解しています。世界にはたくさんの人間がいるのに、そのうちのたったひとり、自分だけが、他とはちがった在り方をしている。自分の目から顔を見ることができず、首の下に体、そして手足をぶらさげて歩いている奇妙な人間はわたしひとりだけです。なぜほかの、あの人やあの人ではなく、それは"こいつ"だったのか? どうやってこいつが選ばれたのか? 開闢の問いとは、そういうものだと思います。

ぼくは、ここには、けっこうな誤解があるんじゃないかなーと思ってます。つまり「自我っていうものは、人間ひとりにいっこある」というわけではないかもしれないよ?というような。何回か書いた気がするけど、多分、ひとつの脳に、ひとり分の記憶しかなく、ひとり分の五感のセンサーしか繫がっていないことが、その錯覚を引き起こしているのだと思う。

もし将来、人の脳と脳をつなぐような技術ができたら、ぼくはそこでは簡単に自我は融合してしまうんじゃないかと考えています。互いの脳が互いの記憶と互いのセンサーを利用できるようになったら、それはただのひとつの大きな脳です。いや、あくまでも"心"はふたつあるでしょう、と言いたくなるのですが、でも脳対脳の接続がカンペキなもので、どちらの脳もふたり分の記憶とふたり分のセンサーをパーフェクトに利用可能だとするなら。同じインプットに対し同じデータを参照して同じ反応をする、同期して動いているそれは、ひとつ、ってカウントされるんじゃないでしょうか?

攻殻機動隊のコミックスにもありましたよね。いま手元になくて参照できないのですが、確か、フチコマがいたずらで思考戦車とリンクして、キミがボクでボクがキミで、自分はいったいキミなのかボクなのかわからなくなる、みたいなシーン。あれとおなじです。

もし脳と脳の接続がうまくいったら、"わたし"はどのように感じるでしょうか。"わたし"は、同時にふたつの場所に存在し、ふたつの場所から世界を見、ふたつの体を動かせる、ふたり分の過去の記憶を持つひとりの人間。そのようになるはずです。で、ここからやっと本題なのですが……もしこの状態で、脳と脳の接続を突然切断したとしたら、"わたし"はどこから世界を見ることになるのでしょうか? その瞬間いきなり、一方の人間の中に引き戻されてそこから世界が開けることになるのでしょうか?(フチコマはそうなってましたね。しかしそれはどのように"選ばれる"のでしょうか?) その時、もう一方の人間の中にあるものについては、いったいどう考えればいいのでしょう?

ちょっと前からぼくの中で問いとして浮上してきていたことを、永井さんの本を読んで思い出したので書いてみました。まぁ、「自我は融合しうる」ってところからまず同意してもらわないといけない(それはぼくにすればほぼ確実なのですが)ので、そもそもこの問いを問いとして理解してもらうことが困難なのかもしれません。