すべての夢のたび。

1日1記事ぐらいな感じでいきたい雑記ブログ

60歳になったら、○人と呼ぼう。

20歳になったら成人と呼ばれて選挙権が与えられるように、60歳になったら○人と呼ぶことにして「死ぬ権利」を与えればいいと思う。通常の自殺とは違う扱いにして、国の公認の施設で塩化カリウムの静脈注射を行う。スイッチは自分で押す。葬式代程度の額が国から支給される。……という「政策」はどうでしょうか?

つまりは「姥捨て」をスマートにやろうという話です。ただし、脳死臓器移植とおんなじで、「義務」ではなく「権利」。別に、60過ぎても仕事があるとかやりたいことがあるとか、そういう人たちに強制するようなものではない。でも、定年過ぎて特にやることもないとか、もうここを退くべきだとか、そう考える人たちも一定量はいると思うのですよ。

それにしても、自死する直接の理由とは要するに「病苦」や「老醜」のおぞましさだ。我々はふだん「なぜ死んだのだ」と深刻に複雑に考えようとするが、それはこの理由があまりに単純で救いがないからかもしれない。しかしこの本はこの答の正しさを直視する。

まず引用するのは、ヌーランドという医師が書いた『人間らしい死に方』。9千人の患者を看取った経験からは、尊厳のある自然死など現実にはほとんど望めず、肉体的精神的に耐え難い苦しみを経由しなければ死は訪れない。その事実を指摘しているという。もうひとつ重大な参照項は、ターミナルケアの先駆者として有名なキューブラー・ロス。キリスト教徒として「自然に死ぬまで生きなければならない」と大勢の人々の最期を励ましてきた。ところが当人もまた脳梗塞に倒れる。その晩年を記録したドキュメンタリー映像によれば、自然死の受け入れが実はあまりにも難しいことを彼女自身が思い知る。天国に召されるのが遅いことで神を呪いまでしたらしい。

これらを根拠に著者は断じる。《自分にとっても、家族にとっても、あるいは社会にとっても、ほとんどのケースで意味のない年月が晩年に待っているのである》と。


病苦や他の悩み等からではなく、心身ともに健康なうちに、考え抜いた末に自殺を選択した哲学者が最後に遺した本の紹介エントリです。こういう「意味のない年月」を減らすことができればいいと思うのです。それは全ての人の為になるとぼくは考えます。本人の負担も減り、家族のそれも減り、そしてもちろん、今後どんどん増えていくばかりの60歳以上の人たちを抱えて食べさせていかなくてはいけない国の負担も減る。

実際、この国この先どうすんの?と思うのです。少子化は進むばかりで対策を打つにももう手遅れ(子供はいきなり20歳で生まれたりしないから、20年後の労働力人口は既に「これ以下」と決まってるわけです)。医学の進歩で平均寿命は延びるばかり。景気もどうにも回復しない。どこかで抜本的な対応をしなくてはいけない。そこで労働力を輸入しようって考えもありますが、ぼくには「?」なんですよね。なんでそんな、この国は発展し続けなくちゃいけないの?と。もうそういうのはいいんじゃない?と。そこまでして支え続けようとしているものにほんとうに意味があるのかどうか、そこから考えるべきだと思うんです。支える人たちが減るのなら、荷物を軽くするって手もあるんじゃない?

このブログで、少なくとも先進国では人類は生存するために働く必要がなくなっているのではないかと考えている。必要最低限の暮らしは、ごく一部の第1次産業従事者によって成り立っている。食料の供給である。農業革命によってある程度安定した食糧生産は2000年以上前に実現されているが、天候不順などで飢饉になることは長い間、しょっちゅうであった。

しかし、ここ100年ほどで農業技術が発達し、飢饉でみんなが飢えるようなことも先進国ではなくなったといっても過言ではないだろう。つまり、贅沢言わなければ必要最低限の暮らしは実現できているのだと。多くの人たちは実は、昔ならば贅沢だった暮らしをするためにせっせと働いているのではないかと思ったのだ。

堀江さんの「少なくとも先進国では人類は生存するために働く必要がなくなっているのではないかと考えている」ということについて、ぼくも以前からそう考えていました。いつの間にか、競争しなくても、頑張らなくても、人は死ななくなってる。利子で暮らしているような生物です。極端な話ですが、そうなった時点で、生物としての人間は進化の段階を1ステップ昇ってしまったのではないかと思います。ある意味での「不死」を得た、と言ってもいい。つまりその時に「生きることは、生命は、それだけで正しく、善であり、意味がある」という価値観は、人間に取っては過去のものになってしまったのです。(だからベーシックインカム云々にはぼくは反対です。というか「できる人たち」はそんな人たちを養うより、もっと直接的に人類発展のためにお金を使いたいと思うんじゃないですか?)

「生は無条件で善」という、とっくにウソになってる価値観に変わるものを立てなくてはいけないのだけど、それがまだ見つからずに右往左往しているのがいまの状況じゃないかな、とぼくは考えています。「生きて自分は何をしたいのか」。自分と、自分の大切な人たちをどうしたいのか。そういうところから一人ひとりがきちんと考えてみて、やがて自分が暮らしている場所とか、この国とか、人類全体をどうしたいのかとか、そっちへ繋げていけばいいんじゃないかと。


で、まぁ、この「60歳になったら○人と呼ぶ」政策は、いきなり実施すると「60歳以上は死ねって言われてるんだ」と受け取られちゃうだろうから、実施までに充分間を置けばいいと思うんです。10年後とか、20年後とか。その間に充分議論を尽くしてこの国をどうすべきなのか目標を定める。「生きてるだけでよし」という旧い価値観からの転換・脱却を図り、新しい価値観への教育・啓蒙をしていく、ということにすればいい。そしてもちろんその場合でも死は「権利」であって「義務」ではない。生きたい人は死ななくてよい。ただ、もう充分だ、もう自分は道を譲りたい、と考える人には、そうさせて欲しい。

でも実際のところ「自分は特にやりたいこともないし、生きていたくもないし、自分がいないと困る人もいないし、自分がいないほうが社会の負担も減るから、もう死にます」と言う人がいたら、これを引き留める説得力のある言葉は、建前でも本音でも、ない、と思うんですよね(旧い価値観の言葉を除けばね)。どう考えても、その通りだよなぁ、にしかならない。そういう人たちに、生きることを強制するのは、どうかと思うんですよ。しかも「生きろ」と言いつつ、社会環境は反対にどんどん人を生きさせない方向へ向かっているという。おかしいだろ、と。生きろつーなら生きたいような、生きていけるような世の中にしろって。



……と書いてみましたが、ぼくはこの「政策」の実施に関係なく、適当なところで自殺するつもりです(笑)。まぁ死ぬ権利なんてなくても実は死ねますので(それに、死ぬ権利なんかなくてもこれから自殺はばんばん増えると思うよー)。「意味のない年月」に突入する前に死ぬ。まぁ当面の予定はないですけどね。収入がなくなるまでにXXXX万円貯めないと……ってこともないので、そのお金を、若く元気で体が動くうちに消費することができる。クオリティ・オブ・ライフを大きく上げることができる(実際、多くの場合は長生きすることがそれを下げることになってる)。こういう選択もいいんじゃないのかなって思います。