すべての夢のたび。

1日1記事ぐらいな感じでいきたい雑記ブログ

ぼくは心を持っていると思う

ぼくは心を持っていると思う。じゃあその心っていったい何のことさ?って言われるとめんどくさい話になるので(だいたいブクマではいつもその手のツッコミが入る)、みな「言わんとするところをつかんでる」ものとして先へ進む。(「冷たい」とか「誠意がない」とか、そういう意味での心のあるなしではない、一応)

ぼくはそれを持っていると思う。他の人も持っていると思う。犬や猫も持っていると思う。ヘビあたりも多分持っているんじゃないか。カエルはどうだろう。魚は? ミミズはどうか。昆虫は心を持っているのだろうか。持っているとしても、ぼくらに比べるととても容量が小さいか、在り様が大きく異なっていたりするのではないか。

では。脳を持たない植物は心を持っているだろうか。空や海は? バイクはそれを持っているのか。漫画やアニメのキャラクターは? そして人工知能は心を持つことができるのだろうか?


自分をいろいろ観察した結果、どうやら次の2つの条件を満たしているときに、ぼくは「コイツには心がある」と感じているらしい。

  1. ソレの考えていることがだいたい推測できる。
  2. ソレと意思の疎通ができる。

他人はこの条件を満たす。猫も概ね満たす。呼べば来るし、来なくてもしっぽを振って答える。たべものをくれーと言う。枕元にじーっと立つので、布団を持ち上げてやると潜り込んでいく。そしてヘビに芸を仕込んだりする人もいるので、連中もまぁ心があるのだと思う。

ではカエルはどうだろうか。このカエルはいまちょっと怒ってるなとか、次にどう行動しようとしているのか等、よーく観察すればわかるのだろうか? ミミズになるともうかなり怪しい。うねうねしてるだけじゃないか。コミュニケーションなんて絶望的だけど、かろうじて、痛いとか熱いとかには反応して、逃げるような動きをするにはする。そこにほんのわずかに人は「心の断片」のようなものを見い出すのではないか?


植物。植物の考えていることはだいたいわかる。もっと日に当たりたいとか、水が欲しいとか、暑いとか寒いとか、大きくなりたいとか、そのへんだ。そしてコミュニケーションも取れる。求めに応じて日向に置いて水をやり手入れしてやれば、ちゃんと育って花開く。きちんと答えを返してくれるわけだ。それをもって人は植物と意思の疎通が図れているように感じる。とてもスローな心ではあるけれど。(そしてキノコの考えていることはいまいちわからないわけです)

オートバイも同様だろう。ぼくは乗れないが、乗っている人は心を感じるのだろうと思う。ポイントは、ソレの考えていることが100%解るわけじゃない、完璧にこちらとコミュニケーションが取れるわけじゃない、というところにある気がする。なんかの具合でちょっと機嫌が悪かったり、どうもうまく言うことを聞いてくれなかったりする。そこで、人は、ソレが自分の意志を持っているかのように感じるのだろう。


人工知能は? 人工知能はこれから作られるものなのだから、この2つの条件を「実装」してやればいいのだ。そうすれば、ソレには心があるように見えることだろう。そしておなじみの疑問が発せられる。「心があることと、心があるように見えることは、違うのではないか?」 この問いの言わんとするところは、誰でも理解できると思う。たしかに、それらは違うことのように思える。

そして残念ながらぼくの手元にも、いつも通りの暫定解しかない。ひとつ、「心がある」というのは現状どこまでいっても所詮「自己申告」でしかない、ということ。自分の心の存在を他者に対し証明する方法はない(そもそもそれがなんであるかわかっていないものの存在をどう証明しようというのか?)。もうひとつ、「心があるように見えるもの」は「心があるもの」として取り扱うしか、人にはできないということ。どう見ても女子高生(しかも妙に可愛い)にしか見えないソレがこちらにニッコリと微笑んで、実はわたしには心がないんですよ、と言ったとして、そして実際にそうだったとしても、そのことが何か問題になるだろうか、ということです。


たまに街中で見かける知的障害者の人たちを、ぼくは怖いと感じる。それは多分、先の条件を満たしていないせいだ。何を考えているのか解らないし、コミュニケーションも取れそうにない。故に、同じ形の心を持っているのかどうか不安になるせいだと思う。しかしおそらく、身内の人や、介護に携わっている人たちは、彼ら彼女らの心、細かな感情の機微をちゃんと見て取ることができるのだろう。一方で、「だれでもよかった」系の殺人犯の心は、ぼくにはなんとなくわかる気がする。それが本当に合っているかどうかは確かめようもないけれど、想像の届く範囲内だ。そして逆に、世間の人はこちらがわからないので、なぜそんなことをするに至ったのかという理由を探し求めるのではないだろうか。だれでもいい、ということは、ふつうにあると思うのだけど。