すべての夢のたび。

1日1記事ぐらいな感じでいきたい雑記ブログ

身になって考えるということ

鳩山代表がブルーリボンバッジを付けなくなった、って記事を見て、それってなんだったっけ……と思った。北朝鮮拉致問題の運動のバッジのことだった。

時折、拉致被害者家族の人たちがマスコミに出てきて、北朝鮮に圧力をかけるべきだ、等と主張する。無茶だなぁ、と思う。生きているかどうかもわからない数十人?のために、日本ぜんたいに影響が及ぶようなマネはできないだろう。

でもほんとはそれが理由じゃないんだよなー。単に、被害者家族の人たちがぼくの身内でも知り合いでもないから関心がうすいだけで、「日本のことを思えば」なんてのは自己正当化のための後付けの理屈に過ぎない。

この時に、「被害者家族の身になって考える」ということはどういうことか? もしぼくの大切な誰かが拉致されたのなら、どれだけ声を挙げても挙げても誰にも聞いてもらえない、無力さと虚しさを感じるばかりの非情な現実がそこには待っているということ。そのことをきちんと感じ取るということだろう。

ぼくはそれを受け入れる。受け入れることと引き替えに、いま何もしない自分を正当化する。こういった問題は他にもあるけれど、おそらく、自分は、被害者の側には回らないだろう、という無根拠で楽観的な信念と共にこれからも生きる。

そしてもし被害者になったのなら、黙って耐えるなんてことはしないだろう。叫び声を上げるのだろうと思う。けれどそれは助けを求めるための声ではなくて、単に痛みから来る悲鳴だろう。助けなんてあるはずもないとあらかじめ知っている。