すべての夢のたび。

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進化についての不思議なところ その2

ダーウィンの映画がアメリカで上映見送りになったことが話題になりました。この件に関する批判で、連中はいったいどうやって科学と宗教を頭の中で両立させてんだ、みたいなものがありましたが、日本人だって初詣行ったりお祓いしたり墓参りしたりするわけで、アメリカ人ばかりが変ということもないように思います(それとは違う、という人は、これらが余りにも普通に生活に溶け込んでしまっているため、どこがおかしいのかうまく気づけないのでしょう)。


さて、その2です。その1はこちら。シリーズなんですか? わかりません。

自然選択説 - Wikipedia

生物の進化を要約すると次の通りである:

・生物がもつ性質が次の3つの条件を満たすとき、生物集団の伝達的性質が累積的に変化する。

 1.生物の個体には、同じ種に属していても、さまざまな変異が見られる。(変異)
 2.そのような変異の中には、親から子へ伝えられるものがある。(遺伝)
 3.変異の中には、自身の生存確率や次世代に残せる子の数に差を与えるものがある。(選択)

上記のメカニズムのうち、3番目に関わるのが自然選択である。一般に生物の繁殖力が環境収容力(生存可能数の上限)を超えるため、同じ生物種内で生存競争が起き、生存と繁殖に有利な個体はその性質を多くの子孫に伝え、不利な性質を持った個体の子供は少なくなる。このように適応力に応じて「自然環境が篩い分けの役割を果たすこと」を自然選択という。


で、気になるのは、この「自然選択」の部分、特にドーキンスの言う「累積選択」はほんとうに起きるのか?というところです。長くなりますがWikipediaの同項より引用します。

累積選択

進化論の反対者は「不完全な眼、不完全な翼などは役に立たない」と述べる。これを説明するのが累積的選択である。原始的な状態と比べてわずかでもその形質を持つことが生存と繁殖に有利さをもたらすのであれば、その形質は種内に広がる。その状態よりもさらに一歩進んだ形質を持つことが同じように有利さをもたらすなら、また種内にその進んだ形質は広がる。

イギリスの生物学者リチャード・ドーキンスはキノボリウオを例に次のように説明した。「もしあなたが魚であって、基本的には水中で生活しているが、時には干ばつを生き抜くために危険を冒して陸へ上がり、あちこち泥んこの水たまりを転々と移動するとなれば、半分の肺どころか、100分の1の肺からでも利益を受けるだろう」。全く肺がなければ地上に飛び出ることはできないが、100分の1の肺でもあればわずかに地上を移動することができ、100分の2の肺であればそれより長い距離を移動することができる。移動可能な距離が長ければ長いほど、干ばつから逃れられる可能性が高まるのである。

では100分の2の肺が一般的に見られるようになった群れではどうだろうか。そこには変異に由来する個体差があり、相変わらず100分の1の肺しか持たずに生まれてくる者もいれば、100分の3の肺を持って生まれてくる者もいる。平均すれば 100分の3の肺を持つ者の方がより生きながらえる可能性が高い。つまりいずれは100分の3の肺が一般的に見られるようになり、そのあとには100分の 4の肺が・・・と考えられる。現実では選択圧は多様なので、肺の容量が必ずしもキノボリウオの生存に有利になるとは限らないが、不完全な性質は無意味であるとは言えないのである(そもそも完全な性質というものはないのである)。


言っていることは解ります。たしかに、少しでも進化した肺を持ったキノボリウオのほうがより生き残りやすく、形質としてはわずかな差異であっても累積選択されることでいずれは現状の肺に至る、のかも知れません。

でも自然は実験室ではないので、ずっと同じように選択圧が掛かることは有り得ません。キノボリウオの肺が"熟する"のをじっと待ってはくれないのではないでしょうか?

例えば上の例では干ばつが選択圧として挙げられていますが、キノボリウオの肺が現在のようなものになるまで(何万年か知りませんが)ずっと干ばつが続いたかどうかは誰にもわかりません。雨の多い季候に変化し、肺の"完成度"が生存に有利でも不利でもないような状況が訪れるかもしれません。

また、進化しているのはキノボリウオだけではありません。というより、キノボリウオを捕食する生物、キノボリウオが捕食する生物、さらにその生物が捕食する生物、等々、周囲のすべての生物が合わせて進化の渦中にあるのではないでしょうか? 陸上で待ち構えている生物が、同時期によりキノボリウオを捉えるのに適したように進化していたり、水中で餌となる生物が増えたりして、必ずしも地上に出ない方が有利なことも起き得ると思います。

さらに、キノボリウオ自体、肺だけが変異するというわけではないでしょう。体の他の部分にも同様にランダムな変異が起きるはずです。「肺が"完成方向"に1/100変異したグループ」と「肺が"完成と逆方向"に1/100変異し、さらに尾びれが1/100大きくなったグループ」では、速く泳げて敵から逃げるのに有利な後者のグループが生き残った、ということもあるかもしれません。

以上、挙げたのは単なる想像です。こういったことが起きたかもしれないし、起きなかったかもしれません。しかし、ぼくには、ほんの僅かずつの変異でも累積することで複雑な器官の形成に至るのだ、とする、ドーキンスの「累積選択」という概念は、ちょっとナイーブに過ぎるんじゃないかと感じられるのです。肺ならともかく、人の眼のような精密な器官がいまの形に至るまでにいったい何ステップの変異が必要だったでしょう。そしてその個別の1ステップの差異は、季候の変化や他の生物の進化など周囲の環境からくる選択圧の変動や、自分自身の体に起きたより生存に有利な変異によって、簡単に飲み込まれ掻き消えてしまう程度のものに過ぎないのではないでしょうか?


……というようなことを思っています。一応言っておくと創造論もID論も支持してはいませんw ただ、いま広く受け入れられている進化論に、一部、いやいやほんとにそんなにうまくいくのかい?と感じてる部分があるというだけです。と言って代わりの説が提唱できるわけでもないですが。まぁ実験で確かめられるようなことでもないので、なるほど、と思えるまではもにゃもにゃしたままな気がします。