すべての夢のたび。

1日1記事ぐらいな感じでいきたい雑記ブログ

我思う我書く、の2

昨日の続き。

デカルトは「我思うゆえに我あり」と言いました。なんでそれをぼくが知っているかというと、彼はそのことを『方法序説』という本に著して世に問うたからです。彼は自分が考えて考えて辿りついたアイデアを、他人に伝えようとしたのです。それはなぜか? 黙って一人胸の内に秘めておくこともできたのに?

ぼくは子供の頃、自分の行動範囲しか世界はないのではないか、というような妄想をしていたことがありました。なにかの理由があってここに連れてこられてきて、ずっと監視されていて、ぼくが行く可能性のあるところはしっかりと作られているけれど、例えば入る用事もないようなビルなんかは外側だけはちゃんと作ってるけど中身は張りぼて、更に、行く必要もないような遠いところなどは実際には存在しないのではないか?

そのような妄想を、どういった話の経緯でそこに辿りついたのかは忘れましたが、ある時、知人も同じように昔持っていたことがわかったのです。自分の周囲しか世界はないのではないか。自分は特別なのではないか。だいたい同じ内容です。お互い似たことを考えていた。その事実を共有した時はふたりでかなり興奮したものです(確か朝までチャットをしていました)。しかしやがて、インターネットなどを通じて、こういった(中二病的な)妄想は、それほど特別でもないのだ、ということを知ることになります。

こういった考えを洗練させていくと、独我論というものになります。確実に存在していると言い得るのは私の精神だけである。他の一切はその内に認識されるものに過ぎず、私の精神を離れては何ものも存在し得ない、といったものです。

で、ぼくは、独我論の存在を聞いて、そんな体系があることを不思議に思ったのです。なぜ、「確実に存在しているのは私の精神だけ」なんてことを、"他人"に話す必要があるのか?と。だって、そんなことを「あるかないかもよくわからないもの」に伝えたって、空しいだけじゃないですか。「お前は存在しないかもしれない」なんて誰かに言われたら、バカですか?と思います。それは"私の頭はどうかしているんだ"という意味でしょう。それとも、ただのひとりごと、なのでしょうか?

それにです。もし独我論があり得るのなら、それを"他人"が語っているという時点で既におかしいのです。だって、世界に確実に存在していると言い得るのは、このぼくみちアキ、しかあり得ないわけですから。"他人"が語る独我論は、端的に間違いです。もし「正しい独我論」があるとしたら、それはこのぼくによって考えられるもので、しかも、言葉にされて語られることは絶対にないものです。

しかしぼくはこうして自分の考えたことを人に伝えている。というわけで、ぼくは独我論者ではない、ということになります。同じように、デカルトは「我思うゆえに我あり」と、心の内で思っただけでなくそれを本に書いたのですから、存在するのはデカルト自身の"我"だけでなく、他人の"我"も等しく存在し、"他我も思う(=デカルトの説を聞いていろいろ考える)故に他我もあり"と考えていたことになります(明確に意識していたかどうかはわかりませんが)。

「我思うゆえに我あり」ということに先だって、多数の"我"が世界にもう存在してしまっている。つまり昨日と結論は同じです。この言葉は、「世界に先立ちその始まりを告げるもの」では、やはりないのです。

それにしてもなぜわたしたちは「思ったことを他人に伝えようとしたがる」のでしょうか。承認を得たいから? それとも、この世界に自分一人だけしかいないのでは淋しすぎるから、他人の存在を確かなものとせんがため、でしょうか? なんにせよ、このことは、人間であることの基本的な性質のひとつに数えられるのではないかと思います。