すべての夢のたび。

1日1記事ぐらいな感じでいきたい雑記ブログ

考える脳、感じるニューロン

ミラーニューロンの発見についての本を先日買ってきました。脳関係の本は好きなのに、今までずっと避けていたのです。読み始めて予想は当たった。なんか、違うんだよなぁ……。本に書かれている内容を自分のことばに翻訳しながら読み進めていくのが面倒になり(もちろん日本語の本ですが)、読むのは一旦中断してしまいました。

たとえば、「自分が物を掴むときに発火するニューロンが、他者が物を掴むときにも発火していることがわかった」という、その記述。ぼくはもう、なんでそうなってるのかの理屈が先に頭の中に出来てしまっているので(もちろんそれは"科学的"に説明されたものではありませんが)、なんかいろいろむずがゆい、まどろっこしいわけです。

おそらく最初は、それは単に、ある行動を見てその意味を解釈するためのニューロンだったはずです。個体の数が増え、協調的・社会的行動を取ることが生存に有利になってきたころの話。しかしそのニューロンは自分がその行動をするのを自分で見たときにももちろん発火する。この時の内観として初めて心が発生したんじゃないかと思うのです。そしてその観察を逆に他者にも適用することで、"他者の心"がやっと理解できるようになる。原初は自他の区別はなかったのだから、ニューロンが鏡のように動きを真似ているというわけではないのです。単に元から区別していなかったというだけ。


もうひとつ別の違和感もあります。こちらのほうが深刻かな。まぁクオリア絡みの話なのでしょうがないのですが。「自分が物を掴むときに発火するニューロンが、他者が物を掴むときにも発火していることがわかった」ところで説明が終わってしまう不満と言いますか。それ、どういう意味なの?っていう。

脳の働きをコンピュータの動きにたとえることはよく行われますが、そのことには根本的におかしな点があります。コンピュータの処理にはインプットとアウトプットがあります。キーボードやマウス、あるいはHDDからデータを入力して、処理を行い、モニタやスピーカ、あるいはまたHDDに結果を出力する。コンピュータとはそんなものです。人間も、何かを見たり聞いたりして、判断し、何か行動を起こしたりします。この部分を見れば似ていると言えるでしょう。

しかし、人間の脳においてもっと重要なことは、いろんなことを感じたり、考えたりできるということです。手を動かすなどの行動を取るときは、ニューロンは次々と発火して次に連なるニューロンにパルスを伝え、最終的には手の筋肉を制御する神経に繫がったニューロンが発火して実際に手が動く、ということになります。しかし、何かを感じる時、考える時には、最終的に行き着く先のニューロンというものはないのです。パルスはニューロン間を廻り廻った末、やがて減衰して消失してしまう。

ニューロンというのは入力されたパルスが一定値を超えると発火し、次のニューロンにパルスを伝えるという、ただそれだけのものです。ミラーニューロンと呼ばれているものにしても、他のニューロンと何か形や動きが違うというわけではありません。ならば、感じる・考えるということはいったい何なのか? 手を動かす場合と違い、ある特定の"感じ器官"にパルスが伝わることが"感じる"ことであるわけではありません(というか"脳"がその器官です)。

ある特定のニューロンにパルスが伝わることが"感じる"ことなわけでもない。もしそうなら、そのニューロンにパルスが伝わったことを"見"ているなにかが必要になりますし、そのニューロンから次のニューロンへの経路(シナプス)を切断してしまっても"感じる"ことは可能なはずです。それにこれをコンピュータの動きに例えるなら、あるメモリ領域にある値が設定されたことがすなわちコンピュータが何かを感じていることである、と主張しているのと何ら変わらないことになってしまいます。

"感じる"や"考える"とは、そういうことではない。ニューロン間を次々とパルスが伝わっていくプロセスそのものが、"感じる"や"考える"ことに他ならないわけです。しかも、そう言ってみたところで、全く何の解決にもなっていない。そんなパルスの流れからなんでクオリア、薔薇の花の赤い感じや音楽を聴いた時のあの感じが出てくるのか、皆目解らないのです。そこにはものすごいギャップがある。

そんなふうなので「自分が物を掴むときに発火するニューロンが、他者が物を掴むときにも発火していることがわかった」と言われても、それってなんなの?と言いたくなってしまうわけです。それって原因なの? 結果なの? イコールなの? 物を掴んだのを見たから結果としてそのニューロンが発火するの? それともそのニューロンが発火したからこそ結果として「物を掴んだ」ことが心に理解されるの? ならそのニューロンを電極で刺激してやれば「物を掴んだ」印象が心に浮かび上がるの?

……などと考えることによって、ぼくの脳でも次々にニューロンが発火している。いや、発火しているからこそ考え続けていられるのか? それともそれらは単にイコール、「考えること」=「ニューロンが発火すること」なのか? ならば「ニューロンの発火について考える」ことは「考えることについてニューロンが発火する」ことであり、「考えることについて考える」・「ニューロンの発火についてニューロンが発火する」とも等しいのか? などという文章を読んだあなたの脳の中でもニューロンが発火しているわけで。