すべての夢のたび。

1日1記事ぐらいな感じでいきたい雑記ブログ

世界を良くすることの意味

Twitterのタイムラインを見ていると、世の中のあれやこれやについて「こうすべき」というつぶやきが多い。まぁTwitterに限ったことでもないけれど。

ぼくもそういうことを考える。どうすれば、世界は良くなるのか? ただ、ぼくにとってそれは娯楽のひとつに過ぎない。ゆえに他の娯楽と等価であり代替可能だ。自分のPCも本もゲーム機もない会社では「どうすれば……?」とよくやるけれど、家に帰った後にまで考えることはあまりない。自分の頭しか使えるものがないときの遊びだ。

なぜ世界はより良くならなければいけないのか? そりゃ、そのほうが気持ちいいからだ。そして、たとえより良くならずとも、「より良くする方法を考える」だけで、すでに楽しく、もう気持ちいい。結局はそこだ。あらゆるすべては、自らの快のために為される。すべて脳は、不快を避け、快を得るために事を成す。

世界が良くなり、皆が幸福になれば、"わたし"が気持ちいいのだ。だから皆、世界を良くすることを考える。どんなに崇高な動機であろうと、起点となっているのは、個人的な快を求める意識だ。それこそが究極的な理由で、それ以上遡ることはできない。わかっている人はわかっている。ある教祖は「『すべての人が救われねばならない』と考える私のエゴが一番大きく、最も救いから遠い」と言い切った。自らを犠牲にして他人を助ける人は、そのほうが自分の快が大きく不快が小さいからそうしているのだ。

そして、これらのことは、「ぼくはそうなのだと思う」ではなく、「そうなのだ」である。人間の脳がひとりにひとつずつあり、それぞれの人はそれぞれの脳によってしか動かされない、とする限りにおいて、端的な事実だ。世界を動かしているのは真善美を求める意識ではないのだ。「そんな考え方は寂しい」などと言ってみても仕方がない。ただこのことを受け入れて、さて、それでもなおどうすればいいのかを、自分で考えるのだ。だって他にすることなんてないだろう、と思う。

いまはそうするしかない。将来、技術が進んだら、人の脳と脳を直接的につなぐことができるようになるだろう。そうすれば、いまは想像するしかない他人の喜びや悲しみを、自分のそれと同じようにダイレクトに感じられるようになり、そして初めて、世界を良くすることの意味が本当にわかるだろう。