すべての夢のたび。

1日1記事ぐらいな感じでいきたい雑記ブログ

では結局、自己とはなにか?の2

昨日の続き。

自己というものは「一元論的で非連続的で受動的なもの」です。……と言い切られても「?」ですよね。ここで問われるのは、「仮にそうだったとして、で、それって何の役にたつの?」ということだと思います。

役に立ちます、ちゃんと。いろんなテツガク的な問題は、この考え方ベースで説明でき、解答を与えることができる。

たとえば、"死とは何か"について。一般的に、死は怖いもの、ですよね。ぼくは死の恐怖は大別して2種類あると思ってます。1つは「愛するものとの別れ」で、もう1つが「自己の消滅」です。で、ぶっちゃけ1つ目のほうは、どうにもなりません(笑)。各人でなんとかしていただくしかない。そちらは置いといて、2つ目のほう。

自分(自己)がなくなる、と言ったとき、どういうことを想像するでしょうか。生きていまやっているようなこと。音楽を聴いたり、本を読んだり、美しい景色を見たり、誰かに触れたり触れられたり、何かに泣いたり笑ったり、そんなふうな感じること・考えることの、過去のそうした記憶も含め一切が、もう二度と起こらない。そういうイメージでしょうか?

だとしたら、それは間違っています。この日記では何度か書いていますが、「自分の◯◯」という形に書き表せるものは、〈自分〉とは違うのです。自分の体も、自分の感情も、自分の記憶すらも、〈自分〉そのものではない。このことは、ある日目が覚めたら病院のベッドの上で記憶をなくした自分を発見した、という状態を考えればわかります。昨日までの記憶もなく、顔も体も全て見覚えがない。それでも、そこに確かに〈自分〉はいるはずです。

つまり〈自分〉/自己には実体はないのです。自己とは現象であり、実在ではありません。人の脳が働いており、自分自身に注意を向けたときに起こる「自分としか言えないものが存在する感じ」というクオリアのようなもの、それが自己です。

このことは、よくエンジンの動きに例えられます。エンジンが止まったとき、"動き"はどこへ行ってしまったのか?と尋ねるのがナンセンスであるように、人が死んだ時に自己はどこへ行ってしまうのか?という問いもナンセンスなのです。現象であり、実在ではないものは、もともと存在しないのだから、どこへ行くこともないのです。

自己は非連続的です。でも人は一般に自己は連続しているものという幻想を持っています。だから、死によってそれが途切れることを恐れる。途切れたあと、あったはずの続きはどこへ行くのかと問いたくなる。でも、違うのです。もともと自己は非連続的なのです。人が自分自身に注意を向けないとき、例えば何かに没頭しているようなときには、自己はありません。「ふと我に返る」ような時に自己は起こり、あらためて発見されるのです。そして、自己がない間に自分の体が積み重ねた記憶を辿った挙句に、自己はずっとあったのだ、と錯覚するのです。

動いているエンジンがいったん止まり、また動き始めたとします。さてこのとき、最初の"動き"と2回目の"動き"は、同じものだと言えるでしょうか? そういう問いはナンセンスに見えます。このことと一緒で、人が眠り、翌朝また起きたとき、それを同じ自己だと言うのもナンセンスなのです。よく言われるように、「人は日々生まれ変わるのだ」という、それが真実なのです。

自己は非連続的です。昨日の自分と今日の自分が同じものであるように感じるのは、「昨日の夜に眠ったのと同じ場所で同じ体で目が覚めた」という"記憶"があるからです。その記憶を利用して、毎朝自己は自らをその人として再起動するのです。もし仮に、あなたが眠っている間に記憶と体を他人のものに変えられてしまっていたら、あなたの自己は何も気付かずに、以前から自分はその人だったとして生きていくはずです。

こういった考えに習熟すると、死は恐ろしいものではなくなります。死も、眠りも、基本的に変わりません。それどころか、起きている間ですら、自己は非連続なのです。……と、ひとまずこの辺にしておきます。続きはまた。