すべての夢のたび。

1日1記事ぐらいな感じでいきたい雑記ブログ

目が覚めるといつも自分だ

永井均著『転校生とブラック・ジャック―独在性をめぐるセミナー』(isbn:4000265857)より引用。元は連続ですが、都合上節で分けています。

序章 火星に行った私は私か

 まず、次の状況を考えていただきたい。私は火星への遠隔輸送機の中にいる。スキャナーが私の全ての細胞の正確な状態を記録し、地球上の私の脳と身体を壊した後、その情報を火星に発信する。このメッセージが火星のレプリケーターに届くと、火星上の物質から私のものと寸分違わない脳と身体が作り出されるのである。このシステムが完璧に作動し、地球で暮らしてきた私と性質的に同一で心理的に継続した人物が火星上に作られた時、その人物は必然的に私であろうか。その人物が私ではないという可能性もあるだろうか。

 自分の考えを固めた後で、また別の状況を考えていただきたい。システムは同じように作動するのだが、ただひとつの違いは、地球上の私の脳と身体が破壊されずにそのまま残ってしまった場合である。地球上の私は、インターコムを使って火星上にいる物理的にも心理的にも私とそっくりのその人物と会話することができる。だが、地球上の私は通常の仕方で連続して存在する以上、火星にいるその人物もまた私であることはできまい。彼が殴られても蹴られても私は痛くも痒くもなく、彼の体を私は動かすことができず、そもそもインターコムを使っていないときには、彼がどこでなにをしているかさえ私は知らない。

 さて今度は、この地球上の私が数日中に心不全を起こして死ぬことになったとしよう。死んでいく私は、火星にその人物が存在することによって、自分は死なないと思うことができるか、あるいは、死ぬにしても通常の死よりはかなりましだ、と感じることができるだろうか。


古典的で、ありがちだけど、面白い状況設定ですよね。こういうことを考えてみたことのある人はそれなりにいるだろうし、考えるのは興味深いと思います。ぼく自身の「自己」に関する捉え方は最近大きく変わったのですが、一旦、それ以前の捉え方、自己は連続するものとしてこの問いを考えてみたいと思います。

まず第一節。火星で目覚めたその人物は、自分をぼくだと考えるでしょうね。それは記憶が連続しているからです。スキャナーに入った自分とレプリケーターから出てきた自分。スキャナーとレプリケーターが何をするものであるか理解しているその人物は、自分を「ぼくは火星へ"転送"されたのだ」と考えるでしょう("転送"時に眠っているかどうかでもいくらか異なると思いますが)。ただしここで永井先生のいう「その人物は必然的に私であろうか」という問いは、別の難しい話なのでここでは置いておきます。

第二節。火星で目覚めた人物は、自分をぼくだと考えるでしょう。ここまでは第一節と同じです。しかし、インターコムにより地球側の自分が破壊されずに残っていることを知る。すると、アイデンティティが揺らぐことになるでしょう(リリカルなのはのフェイト的状況です)。ここでのポイントは、地球側の自分が残っていても、それを知りさえしなければ、アイデンティティの揺らぎは起こらないだろうということです。逆に、地球側の自分は残っておらず、しかし合成されたCG映像がインターコム経由で地球側の自分を名乗ったとしても、やはり揺らぎは起こるでしょう。

つまり、アイデンティティ、自分が何者であるかという位置づけは、事実そのものよりも解釈によって決まってしまうのです。「火星に転送された自分」より「地球にずっといる自分」のほうが、よりオリジナリティ/ホンモノ性が高い、と、わたしたち(そして火星と地球のそれぞれの人物)は感じるのです(永井先生ですら無意識的にそうして話を進めています)。自分は人物Aだと思っていたものが、解釈によりA'に格下げされることで、アイデンティティが揺らいでしまうのです。(似たような話は、ありますよね。実の子だと思っていたのにとか、◯◯人だと思っていたのにとか)

第三節の話は、これは人によって感じ方が結構異なるのではないかと予想します。「自分は死なない」と思える人はあまりいないんじゃないでしょうか。「かなりましだ」でもどうでしょう。「まぁいくらかはましだ」「ちょっとは慰めになる」程度の人が多いんじゃないでしょうかね。この話はちょっと毛色が異なるので、また別の機会に考えたいと思います。


で、今のぼくは、自己は非連続的なものだという認識に立っています。この考え方でこの問いに答えるとどうなるでしょうか。答えとしてはシンプルなのですが、前提を共有してもらうのが難しいので理解していただけるかどうかはわかりません。

火星に転送されたその人物は、地球にいた人物とは異なります。しかし、スキャンされる前の人物と後の人物も、異なる人物なのです(被スキャン行為が人を変えてしまうという意味ではありません)。一度意識が途切れ、また目覚めた時、その自己は非連続・ベツモノなのです。連続しているのは記憶という外部からの情報だけです。自己は連続したものだという幻想があるからこの哲学的問いは問いとして成り立っているのですが、前提が崩れ自己が非連続ということになると、答えはシンプルに「どれも別人物」ということになり、問いの体をなさなくなってしまう。寝て起きたら別人物、いや、自己を意識し、なにかほかのことをして、また自己を意識する、その過程でいちいち自己は生成したり消滅したりを繰り返しているのです。それを同じとか違うとかいうのはあまり意味がないのです。


ただし。ここにはまだ第一節で永井先生の言っている「その人物は必然的に私であろうか」という難しい問いが残されています。これは、世界が開ける場所のことを言っています。上では客観的な記述になっていますが、世界は主観的なものです。世界の中で、たったひとり、在り方の違う人物、目・鼻・口の下に首から体をぶら下げて歩いている人物が居て、それが、誰にとっても「私」なのです。永井先生は、いまは地球上のある人物の中にいる「私」が、火星にこの人物が転送されることによって「私」も移動し、その人物の内側から世界を眺めることになるのだろうか、と、そういうことを言っているのです。もちろん、そうでないことも考えられます。スキャンされ脳と身体が破壊された時点でこの「私」は終了し、火星では別の"誰か"が自分とそっくり同じ脳と体を使って生きていき、「私」が世界を体験することはもう叶わない。そういうこともあるかもしれないではないか。

ですが、これも錯覚なのです。なぜなら、アイデンティティを立ち上げるのは常に記憶だからです。火星に転送された人物は、スキャナーに入った記憶とレプリケーターから出てきた記憶を元に、自分をアイデンティファイする。彼に取っては火星にいる自分が「私」になってしまうのです。その"誰か"は自分を「私」だと錯覚し、その後を生きていくでしょう。一方で地球に残った人物も、実は元とは別の自己であるにも関わらず、記憶の連続性から自分を「私」だと錯覚するのです。考えてみていただきたいのですが、記憶以外に、自分が昨日の「私」と同じ「私」であると知らせてくれるものがありますか? 昨日もこの体だ。寝たのもこの部屋だった。昔のことだって覚えている。でもそれらはすべて、ただの記憶に過ぎないではないですか。

けれど、ああ、これではうまく書けていません。それはまだぼくがこの考え方をうまく乗りこなせていないせいで、だからたぶん書けないのです。頭では解る。しかし、それでも、まだこう言いたくなってしまうのです。「でもぼくは結局いつだって同じ体の中から世界を眺めているじゃないか? 自己が非連続だって言うんなら、その自己がいっつも同じ体の中で目を覚ますことになるのはなんでなんだぜ?」 どこか違う人物の中で起きることがあってもいいではないかと。しかしそれは、間違った問い方なのです。ある身体の内に生成する自己は、その身体に備わった「その身体がこれまで生きてきた記憶」を使って自分をアイデンティファイするほかない。だから「目覚めるといつもこの体」になってしまう、ただそれだけのことなのです。


と、こう書いてみた瞬間は、なんとなくわかるのです。これは違う自己、「引き継ぎ」は順調にいってますよ、と。でもちょっとするとまたわからなくなるw もっと繰り返し繰り返し、それが体感になるまで、この身体のほうにこの認識を刷り込ませていき、目覚めた自己がすぐこの考えを使いこなせるようにする必要があるようです。その必要があるのかどうかはよくわかりませんが。