すべての夢のたび。

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ニューカムのパラドックスと合理的行動

知性の限界――不可測性・不確実性・不可知性 (講談社現代新書)』の中で紹介されていて思い出したのですが、ニューカムのパラドックスというものがあります。だいたいこんな感じです。

未来がわかるという人物ミスターXが、あなたの前に箱を2つ置いた。箱Aは透明で中に100万円が入っているのが見える。箱Bは不透明で中が見えない。

あなたはこれから「1.箱Bのみを取る」か「2.箱Aと箱Bの両方を取る」か、いずれかの行動を選択することができる。ただし、あなたが行動1を選択するとミスターXが予測していた場合、箱Bの中には彼によってあらかじめ1億円が入れられている。あなたが2を選択するとミスターXが予測した場合、彼は箱Bの中を空にしている。

さて、あなたは1と2のどちらの行動を選択するべきだろうか?


この話を初めて読んだのは相当前です。その時どっちを選ぼうと考えたかは忘れました。しかし今ならぼくは迷わず1を選びますね。そして1億円ゲットですw

しかし、こういう考え方もあります。「箱はもう既に目の前に置かれてしまっている。従って箱Bの中身は変化しようがない。もし1億円が入っていれば1億円が入ったままだし、空なら空のままである。ならば素直に両方の箱を取ればいいではないか。箱Bのみを取るならば得るお金は0円か1億円だが、両方の箱を取れば100万円か1億100万円となり、後者のほうが期待値は高いではないか?」

一般には両方の箱を取るほうが「合理的行動」とされているようです。確かに「箱の中身はもう変化しない」という事実から出発して論理的に導き出される結論は「合理的」と主張できるものかもしれません。しかしまぁそれを「合理的」と言われてしまうのはぼくとしてはちょっと不満があります。ぼくからすれば、箱Bのみなら確実に1億円やるよ、と言われているのだから、そうするのが合理的に思えるのですが。わざわざ貰える額を減らす行動に出るほうが非合理的に見えます。

というふうに、たぶん立場によって見方が違うんでしょうね。ミスターXの言うことを素直に信じるか否か。決定論か自由意志か。……と書いていて、行動1は決定論で2は自由意志、とすっぱり言い切れるのかどうかわからなくなりました。

行動1を選択する人は「未来は予測できる」と考えているわけです。だから両方の箱を取るとミスターXが予測したなら箱Bは空です。つまり箱Bだけを取り1億円貰うのがよいと。しかしよく考えれば、未来が予測できるということは、行動の選択の余地なんてものは実は最初からないわけです。「未来は予測できる」と「行動は選択できる」は矛盾します。自分が行動1と行動2のどちらを行うか既に決定している中で行われる選択行為とはいったいなんなのでしょうか?

行動2を選択する人は、箱Bの中身が1億円だろうが空だろうが両方の箱を取る、という選択をします。つまり自由意志の行使が可能だと考えているわけです。しかしその行動は「箱の中身はもう変化しない」という考え方に支えられている。行動2を選択した人がこの部分で信じているのは、実は決定論なのです。ある部分では決定論、別の部分では自由意志と、都合よく使い分けている。これではちょっと合理的と言えないのではないでしょうか(笑)。


行動の選択が可能であるとして、両方の箱を選んだ場合、箱Bの中身が空になってしまうように見えます。この考え方を「遡及因果」と呼ぶそうです。現在の出来事が過去の出来事に影響を与える、ように見える。そんなバカな、と思われるかもしれませんが、実際には日常的に行われています。たとえば入試の合格発表を見に行く時、掲示板に結果が貼り出される前から合否は決定しているわけです。なのに、自分の目で確かめるまで「受かっていますように……」と祈り続けてしまうとか。これなんかは、「祈りが現実に影響する」「現在が過去に影響する」の二重の非合理性を纏っているような気もしますが(笑)。