すべての夢のたび。

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力の抜ける言い回し

日刊ゲンダイ ・ 社会/東国原浮かれ知事に天罰 口蹄疫大被害と疫病神知事 お笑い芸人失格人間を知事に選んだ宮崎県民に責任があるのに国の税金で救済は虫が良過ぎないか


日刊ゲンダイはツイッターのアカウントを持っており、日々の記事の見出しをツイートしているようです。そこで今日流されたのがこれです。今現在で300以上ブクマされていますね。

浮かれ知事だの疫病神知事だの失格人間だの、ふつうに名誉毀損レベルの単語を連発しており、これでも夕刊紙かと思いたくなるのですが、なかでも"天罰"はちょっとないなぁと思いました。今現在も災厄とたたかっている人たちの目の前で、それは天罰だと軽々と言ってのける新聞があるという。すごいですよね。怒りを通り越してもうなんだか脱力していました。

まぁもちろんこれだけの事を言うのだから覚悟はあるのだろうと思います。ならもう何も言えないのですが。きっとこれから日刊ゲンダイ編集部が火事で焼失しようが、編集部員やその家族が悲惨な事故で死のうが、やはりそれも同じように天罰と言われることでしょうし。


そういやもういっこあったんですよね。もういっこというかきっこ。

宮崎県の口蹄疫で牛や豚が殺処分されてる問題だけど、もともと人間が食べるために牛や豚を育て、肉の美味しくなる時期に屠殺場で殺し続けてきたことは何とも思ってない人たちが、「涙ながらに牛を殺した」とか「豚を殺した」という詭弁はやめて欲しい。


きっこのブログのあの人です。中の人何人いるのか知らないけど。こちらも同じくらいブクマされています

こちらはもう少しデリケートな話かも知れません。実はぼくも、牧場の人たちが牛や豚を殺処分することに非常に強い抵抗がある、というのを見て、ちょっと意外に感じていました。もちろん通常屠殺は専門の業者が行うわけですが、実際に食用の牛や豚を飼っている人たちの間では、自分たちの育てたそれがやがて殺されるものだというのは、もっとはっきり意識化されているものだと思っていたのです。

でもそれは普段肉を食べているぼくについても同じことで、要は牧場の人もぼくも生き物を殺すというある意味カルマを屠殺業者に押っ被せているわけです。それは普段からもっとちゃんと考えていなければならなかったはずの問題で、そして問題の存在に気づいたからには、これからどうするかの選択ができます。たとえば、ときどきは、どこにいるのかわからないけど屠殺業者の人たちにありがとうと念を送るとかですね(当然、殺されて食べられてくれる牛や豚にもですがw)。ほかにも、肉食を止める、なんて選択もあります。

んで、きっこの人はこのあと延々と、私は自分で殺せる生き物しか食べない、というようなことをツイートするわけです(中の人みんながそうなのかはわかりませんが…)。それはそれで結構なことだと思います。しかしだな、"「涙ながらに牛を殺した」とか「豚を殺した」"というのは、ぼくは別に詭弁ではないと思うんですよ。

まずひとつ、今まで意識化されてなかった「殺す」ということに今回初めて気づいた、のかもしれない。なら"かわいそうなことだったんだ"でいいじゃないですか、何の問題もない。もうひとつ、元から気づいていたとしても、かわいそうなものはかわいそうなんですよ。それは感情の問題です。たとえばここに何かのぬいぐるみか人形でもあったとして、それを土足で踏め、と命令されたら、多くの人は戸惑うだろうと思います。ましてやこの場合の相手は生き物です。それを殺せというのだから抵抗はあってもおかしくないでしょう。

きっこの人は、死刑判決を受けた犯罪者だから、ということで、執行ボタンを躊躇せずに押せるんでしょうかね。押せるのかもしれません。だって死に値する人間なんだし。理屈で言えばそうです。でも多くの人はそこで感情も動くんですよ。そういうことに思いが至らない人なのか、故意に無視しているのかはわかりませんが。