すべての夢のたび。

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日常ベースの世界観が正見を妨げる

法則というものは、見出されるものか? それとも作られるものか? 一般には前者と考えられているのではないか。自然の中にあらかじめ存在している物理学や数学の法則を、実験や観察、考察の結果として人間が見出す。しかし、ぼくの考えは後者だ。ただこの2つはそんなに差があるものでもないかもしれない。たとえばGoogleで何かの言葉を検索すると、結果がソートされて表示される。この結果はいま作られたものと言えるだろう。しかし、web上にあらかじめ広がって存在していたある種の"構造"が、Googleによって取り出され1ページにまとめられて表示されただけ、とも言える。その程度の差なのかもしれない。

作られるものとしての法則とは、たとえばこういうことだ。原初の人間は、何も法則を持たない。しかし、世界の中で暮らしていくうちに、繰り返し起こるできごとがあることに気づいていく。日が昇り沈むことや月の満ち欠け。季節の移り変わり。人や動物が生まれ死ぬこと。あるいは、リンゴ3個に5個を加えるといつでも8個になること。つまり1個と1個だと2個になること。遠くにある山は常に小さく見えること。村から川へと歩く間に太陽がいつも同じだけ移動すること。こうして世界から「いつでも同じになること」が抽出され、やがて法則としてまとめられる。そして法則と法則は組み合わされて、どんどん高度に洗練されていく。

確かに最初はそうだったはずだ。しかし、法則が世代を経て伝えられていくうちに、いつしかそれらが人間によって作られたものであることは忘れられ、初めからあったものだと見なされるようになる。世界の中のできごとは法則に"従って"起こるのだと逆転して考えられるようになり、その考えに完全に慣らされてしまう。自分たちで作り上げた世界観に縛られてしまうのだ。

しかしこの世界観は日常ベースだ。基本的に身の回りのできごとを観察することから編み上げられたものだ。だからたとえば「物質は波動と粒子の二重性を持つ」などということは容易には受け入れがたい。けれども、当たり前だが、人間などがその存在を始める前から、物質は波動と粒子の二重性(と、後々人間によって"法則"化されるもの)を持っていたのだ。初めからそうだったのである。なのに、人間が、自らの世界観に縛られ、そのことを認めまいと頑迷に抵抗を続けていただけなのだ。そういうことは他にもまだいろいろある。量子もつれ、エンタングル状態にある2つの粒子が光速度を超えて何かをやりとりしているように見えることもそうだろう。あのアインシュタインですら、最後までこのことを受け入れられなかったのだ。しかし、世界は初めからただそのようにあったわけである。

科学が進歩したため、法則の一部にはこの日常ベースの世界観を逸脱しているものもある。先に挙げた「物質の二重性」は、結局人間には何が起きているのかはっきり掴めないまま(というか、そのとおりのことが起きている、としか言えないのだが)、法則として受け入れられ現実に応用されている。もっと簡単な「光速度普遍の原理」などは、既に常識のレベルといっていいだろう。でもこの法則は明らかに日常的直感に反している。誰から見ても速度が変わらないもの、速度が加算されないもの、速度がゼロにならないもの、そんなものがあるわけないではないか。しかしこの法則は人々の間で受け入れられている。なぜか? 権威ある者がそう言っているし、他のみなもそう言っているからだ。光速度普遍の原理を"実感として"受け入れている人間は、世界にそう多くはいないだろう。

先日書店で新しい宇宙論の本を見かけた。宇宙には初めも終わりもなくただループになっている、というものだ。そう考えることで、いわゆる「幸運な宇宙」論、この宇宙が非常に微妙な調整の上に成り立っているように見えること、ちょっとでもパラメータが違えば今の姿はとっていないだろうこと、そういった困難な問題が、すべて回避できるらしい。なんとも素晴らしい提案である。ただ一点、「初めも終わりもない」という部分を除けば。しかし、これをたとえば「物質は波動と粒子の二重性を持つ」ということに比べてみたとき、受け入れがたさの差がどれだけあるだろう? そんなにあるのだろうか? 二重性? 粒子であると同時に波でもある? わかってて言ってる? それに比べたらまだ「初めも終わりもない」のほうが易しいではないか? 輪になっているのだ、それだけではないか。もし権威ある者がそう言い、みながそう言いだしたら、単にそれも「ふーん」として受け入れられるレベルのことなのではないだろうか?