すべての夢のたび。

1日1記事ぐらいな感じでいきたい雑記ブログ

転校生が誰かと衝突するときにほんとうに起きていることは何か?

〈私〉の存在の比類なさ (講談社学術文庫)』を途中まで読んで考えていたこと。

転校生が初日から遅刻しそうになり、学校まで走って行こうとして、四つ角で出会い頭に誰かと衝突し、中身が入れ替わってしまう。このことについて考察します。

ここで入れ替わってしまうものは何か? 一般的には"記憶"とされています。だがそれはおかしい。もうひとつ入れ替わっているものがあるはずです。それは"視点"です。

第三者から見れば、衝突が起きたとき、「転校生A子」と「彼女と同じクラスになるはずのB男」の中身が入れ替わっているように見える。しかし、これを映画的に、A子からの主観映像で表現したとしましょう。彼女は走っている。四つ角に差し掛かる。誰かと衝突して倒れる。しかし、カメラはA子視点のままでB男に移動しない。そしてA子はB男の口調でしゃべりだし、どこかの男子が女の子のしゃべり方で痛いだのなんだの言っているのを聞くことになる。

記憶だけが入れ替わるのなら、こうなるのが正しいのではないでしょうか? 仮に自分が記憶喪失になったらどうなるか?ということを考えてみてください。ある朝目が覚めたら、記憶がなくなっていた。しかし、当たり前ですが、「記憶をなくした自分」はそこにいますよね。視点は記憶とともにどこかに消えてしまったりはしない。

つまり、"記憶"と"視点"は分離して考えることができるのです。そして一般に、転校生が誰かと衝突するケースにおいては、視点も同時に移動するのだけどそれについての描写は省略されている、と考えるのがよいようです。

それではここで、衝突で"視点"だけが入れ替わるケースを考えてみます。第三者から見れば、A子とB男は衝突したけれど、2人とも倒れて起き上がっただけで、何も変なことは起きていないように見えます。ところが、これを主観映像で表現すると話は違ってくる。A子は走っていて四つ角で誰かにぶつかる。この時、カメラはB男視点に切り替わります。しかし記憶は入れ替わっていないので、「B男」はそのまま男口調でしゃべり出します。危ないと文句を言うのかA子を気づかうのかは知りませんが。

これは、可能な事態に思えます。どういうことなのかが想像できる。世界が開ける場所だけがただ変わるのです。ぼくはいま"みちアキ"の体の中から世界を見、このような文章を書いていますが、明日朝起きたら有名アイドル歌手の中から世界を見ていた。しかし、記憶の入れ替わりはないので、そのまま彼女の中から世界を見、アイドル歌手としての人生を生きていくのです。以前からそうであったと信じて。というより、そんなことは考えもせずに。

さて問題です。なんでもできる神さまがいて、"記憶"や"視点"の入れ替えも自由にできるとします。記憶の入れ替えならなんとなくわかる。まぁコンピューターに例えれば簡単です。HDDのどこかに保存されているデータを入れ替えるのでしょう。人間の場合でも、脳の中のシナプスの接続をごにゃごにゃするんだろう、というあたりまでは想像がつく。それでは、"視点"の入れ替えをするときは、神さまはいったい何を入れ替えることになるんだろう?というのが、ここでの問題なのです。

ぼくは"みちアキ"の体の中からこの世界を見ている。あなたはあなたの体の中からこの世界を見ている。世界はここから開けている。その、世界に数十億ある他の体ではなく、この体の中から世界を見ることを条件付けているそのものはなにか? どうやってそれは紐付けを行っているのか? それは科学で説明ができることなのか? 物理的に何かをどうこうすることでそれは決まるのか? それとも……?

それとも……?の側に答えがあるのだろうな、というのが、いまのぼくの予想です。たとえば、ここまでに出てきた、あるいは出てきていない前提のどこかが間違っている。または、問いの立てかたが間違っている。もしかすると"視点"が入れ替え可能という仮定そのものから間違っている。そのような形でケリのつくタイプの問いなのではないかと考えています。もうひとつ、超科学的な方向でケリがつく(例として、"魂"がある等)ことも考えられますが、おそらくそちらではないだろうと思います。