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『発達障害当事者研究』を読んだ

発達障害当事者研究―ゆっくりていねいにつながりたい (シリーズ ケアをひらく)

発達障害当事者研究―ゆっくりていねいにつながりたい (シリーズ ケアをひらく)


最近読んだ本の中では一番に面白かった。面白かったという表現は良くないのかも知れないが。ぼくはただぼくの("わたしとは何か"を知りたいという)個人的興味を満たすことの参考とするためにこの本を買ったので、本来の読者ではないと思う。この本は三省堂神保町本店4Fの医学専門書の棚にあった。書名通り、アスペルガー症候群の当事者により綴られた「"それ"はいったいどういうものか」についての本だ。

 「おなかがすいた」
 これは、私の数ある「わかりにくい感覚」のひとつである。
 我が子たちを見ていると、いともたやすく、
 「あ〜おなかすいた〜。なんか食べた〜い!」と叫ぶ。
 彼らは身体が訴える感覚を、一瞬にして「これは空腹の感覚である」と判断し、さらに「食べたい」というひとつの意志をまとめあげているといえる。そして、その意志を行動に移す段階で、「自分でつくる」ことはできないため、「人に訴える」という行動を選ぶことになっている。
 一方、私はまず、「おなかがすいた」という感覚がわかりにくい。なぜなら、身体が私に訴える感覚(以下、身体感覚)は当然、このほかにもつねにたくさんあるわけで、「正座のしすぎで足がしびれている」「さっき蚊に刺された場所がかゆい」「鼻水がとまらない」などの空腹感とは関係のないあまたの身体感覚も、私には等価に届けられているからである。
 さらに、私に届けられる情報には、このような身体内部からの感覚だけではなく、見たり聞いたり触れたりなどの五感を通じてインプットされる身体外部からの情報もある。だから、これら大量の情報を絞り込み、「おなかがすいた」をまとめあげ、「食べる」という具体的行動にまで移すというのは、毎回とてもむずかしい、ということになる。
 それでは、その一連の過程について詳述していこう。

本書15ページより。以下、長くなるが引用する。

「〜かも」のひとつとしての空腹
 私の場合は、自分が「おなかがすいた」かどうかを知る前に、
・ボーッとするなぁ、考えがまとまらない
・う、動けない
・倒れそうだ、血の気が失せる
・頭が重い、ふらふら
という、いくつかの身体感覚の変化を情報として感受する。しかしこのような感覚は空腹時のみに起きるものではなく、風邪をひいたとき、疲れたとき、悩みごとで参っているとき、生理前などにも現れるため、これらの感覚からだけでは「=空腹である」と判断するのはむずかしい。よって「おなかがすいているのかも?」「また具合わるいのかも?」「そろそろ生理前だったっけ?」と推察しながらやり過ごすことになる。

 すると少し遅れて、やや「空腹感」に限定された(ということは事後的にわかるのだが)、しかし、とても微弱な、次のような身体感覚が出現する。
・胃のあたりがへこむ
・胸がわさわさする
・胸が締まる感じがする
 さらにこれらの身体感覚には、「快不快をともなう気持ち」とでもいうようなものがついてくる。たとえば、
・胃のあたりがへこんで→なんだか気持ち悪い
・胸がわさわさして→無性にイライラする
・胸が締まる感じがして→悲しい
などである。これらは直接的な身体感覚ではなく、身体感覚の情報が、ひゅうっと首の後ろを伝って頭に移動した後に感じるものなので、身体感覚と言葉を分けるなら「心理感覚」とでもいえるようなものである。

 このように、いったん心理感覚をともなうと、「胃がへこんでいる」「胸がわさわさしている」という身体感覚だけでなく、「う〜気持ち悪い〜」「イライラする!」という心理感覚も私を埋め尽くし始める。
 こうして身体の変調を伝える刺激が身体感覚・心理感覚ともに私に届けられるようになるのだが、これではますます情報が多くなり、「=空腹」にたどりつくことができなくなる。それぞれの関連性が不明確な、バラバラで大量に生じている身体感覚や心理感覚からは、「=空腹」をまとめあげることができないのである。そのため、あいかわらず、
・「"フラフラする"から、こりゃあ、やっぱり私、また具合悪いのかも?」
・「"イライラする"けど、さっきあの人に言われたことが私はそんなにイヤなのかな」
・「"ボーッとして考えがまとまらない"のは、本の読みすぎかもしれない?」
など、「なぜそのような感覚が起きているのか」という原因を、引き続きいろいろと探るはめになってしまう。そのようにいくつかあがる「〜かも?」という推察のひとつとして、「おなかがすいているのかも?」という可能性も生じているという状態である。

空腹が確定するとき
 さて、幸いにも(?)、「空腹」というのは、確実に進行する身体変化である。
 「胃のあたりがへこむ」という身体感覚は、はじめ小指でチョンと胃が押されるような感じなので「=空腹」だとはわかりにくい。微弱ながら「おなかがすいたかも?」とは思うのだが、「手足の先が冷たい」などといった、体中から次々に届けられる他の身体感覚のほうが勝っているため、「おなかがすいたかも」という小さな推察は、「消える」というより「やっぱり違うかも?」と「潜在化」してしまう(このような出たり引っこんだりする「〜かも」という推察を、〈かもの亡霊〉と呼んだりもしている)。
 しかし、再び「胃のあたりがへこむ」感覚が顕在化したときには、へこみの大きさは親指大になっており、潜んではまた顕れるたびに、次は500円玉大、次は卵大と、ゆっくり大きくなっていく。その身体感覚が大きくなるにつれて、「手足の先が冷たい」や「蚊に刺された後がかゆい」「肩が重い」「頭皮がかゆい」などの乱立していた他のたくさんの身体感覚のほうが相対的に小さくなり、潜在化していく。その結果、身体感覚の変化から導かれた「具合悪いのかも」「本の読みすぎかも」という、「おなかがすいたかも」以外の「〜かも」という推察も、徐々に可能性が低くなっていく。
 そしてどらやきくらいの大きさで胃がえぐれる感覚になったとき、まさに文字どおり、おなかが「すく=空く……空っぽにえぐられてなくなる」感じとなる。同時に「ボーッとする」「倒れそう」「胸がわさわさして、無性にイライラする」「胸が締まる感じがして、悲しい」といった身体感覚・心理感覚も増大しており、顕在化しつづけるようになっている。このことから、どうやらこれらは、空腹によって生じ、ひとまとまりになっている感覚らしいということが、事後的に判明する。
 こうして、ここでようやく疑う余地もなく「私はおなかがすいている」ということがわかるのである。


長くなった。しかしそれにしても恐ろしくなる述懐だ。毎回毎回、彼女は空腹のたびにこんなことをやっているのだ。というか空腹に限らず、日常のすべてがこうなのだ。「ふつうの人」ならば無意識に一瞬でやってのけることを、いちいちすべてを自分の判断でやっているのだ。逆に言えば「ふつうの人」はいかにオートマティックに生きているのか、ということになるのだろう。

さて空腹であることはわかった。しかし、彼女はここから「何かを食べる」という意志をまとめあげるのも"手動"なのだ。また同程度に詳細で長いプロセスの記述が続くので引用はしない。興味のある人は本書を買って読んでみてほしいと思う。

このような問題への対策のひとつとして、アスペルガーの人は「手順を守る」ことに拘るのだ、というような記載もあった。つまり、同じようなシチュエーションなら同じ判断を下しても構わないだろう、という戦略の採用だ。それ故、ちょっと状況が異なる(「あるべきものがない」「なにかひとこと言われた」)とすぐパニック/フリーズしてしまうことになるのだ。なるほどそういう理由だったのか、と思わされる。

著者は「感覚飽和」という言葉を使う。上の引用を見ても判るとおり、彼女の身体感覚はおそらく「ふつうの人」よりはるかに鋭い。なんとエコーロケーション(反響音で周囲の状況を判断すること)まで日常的に使っているそうだ(コウモリかよ…)。また、見たものも写真のように鮮明に記憶できるらしい。ぼくの考えでは、おそらくすべての人間はもともとそういう高感度のセンサーを持っているのだけど、意識に上る前に情報が加工(意味や価値の付与・取捨選択)されてしまっているのだろうと思う(人工知能における「フレーム問題」が思い起こされる)。そしてそこの部分が壊れてしまっている人がアスペルガーなのじゃないだろうか?


さて話は変わる。

この本は面白く、とても分かりやすい。というか、その分かりやすさは異様なほどだ。「立て板に水」のようにアスペルガーの症例(のひとつ)が頭に入ってくる。まるでこの文章は「ふつうの人」が書いたものにしか思えない。そしてここで疑問が生じる。産まれたときからこのような困難を抱えていた彼女が、いったいどうやって「言語」を取得したのだろう、ということだ。著者の"ふつう"はぼくたちの"ふつう"とはまったく違う。「私の見ている空の青色は他の人の見ているそれと同じだろうか?」というあの哲学の問題が、ここではほんとうに起きているはずだ。しかし、この本では、「ふつうの人」の"ふつう"を基準として、アスペルガー症候群である著者の"ふつう"を基準から外れたもの、異常なものとした記述になっている。

これは、どういうことなのか? ふつうのひとのふつうが彼女に分かるのだろうか? 少し考えてみた。

  1. 分かる。どうやってかは知らないが、彼女はそれを知っている。
  2. 分からない。彼女は実際には分からないものについて、推測で記述している。
  3. 彼女の使う言葉は見た目は私たちのものと同じだが、その意味するところはまったくずれている。

もちろん、このうちのどれか、ということはなく、ミックスなのだろうと思う。彼女が正しい意味を把握しているもの、たぶんそういうことだろうと思って書いているもの、それから、ぼくらが使うのとはまったく違う意味で言葉を用いているものがあるのだろう。そしてもちろん、3.については、ぼくらはぼくらの意味を感知してしまうので、どれがそれであるかは永遠に判らないまま、ということなのだ。(実際にはもうひとつ、「4.(アスペルガーではない)共著者がリライトしている」可能性もある)

この本を読んで、「言語は他者である」という言葉の意味が、少し解った気がした。言語は自らのルールで自らを組み立ててしまうので、その人に完全に「寄りそった」ものには絶対にならないのだ(でないと、他の人に話が通じない)。マルコフ連鎖を使ったtwitter botのように、規則に従って書けばとにかく意味の通る文章にはなってしまうわけだ。そしてそれは元々意図したかったものとはずれることになる……のか? 言葉以前の意味なんてあるのか? 基準もないのにずれがあるのか? まぁよくわからなくなってくる(笑)。


そして、もうひとつ。この本には大変興味深い記載がある。以下本書170ページより引用する。

「ここを押して」という体の声に振り回される
 日常生活における負荷が最大だった中学・高校時代の私は、日ごとに原因不明の具合の悪さが心身ともに積み重なってへとへとになっており、体のあちこちからの差し迫った自己紹介に日々わずらわされていた。
 当時の私は、眼精疲労、肩こり、消化不良、空気を呑んで胃腸にガスが溜まるなどのほか、慣れない人的・物的環境にいることで、声帯の動きだけでなく、腸の動きもよく止まり、結果、おなかに溜まった空気が動かなくなりやすく、ひどくなると猛烈な腹痛を引き起こしていた。
 私は体調の悪さのために、身体をケアすることに毎日二時間ほどを費やさざるを得なくなった。手の親指や棒状のもので、体の各部所をぐりぐりと押したり揉んだりしてマッサージをしたり、ストレッチ体操をして筋のあちこちを伸ばす。「足の裏のここをほぐして!」「まだ腕のこっち側の筋を伸ばしてないよ!」という体中の訴えにひととおり応じると、ようやくなんとか再び腸が動きはじめ、疲れ果てて寝るという生活を送っていた(このような症状は、高校卒業以来「人並みとされる生活をしないこと」でいくらか軽減している)。
 「ここを押して」「ここをほぐして」「ここの筋を伸ばして」という体の訴えは、うっ血してウズウズする感じや、筋の痛みやかゆみといった身体感覚が、緊急性をもった〈せねば性〉としてまとめあがったものである。しかし実際にその訴えにこたえると、訴えたその部分ではない、一見関係なさそうな別の場所のうっ血や痛みが、すうっと消えていくことがあると気づく。体の各部分での一押し一押しが「ここは肩」「ここは背中」「ここは胃」「ここは腸」と体の別の部分と直接つながっているのを感じながら、自分が内蔵や筋肉を一つひとつほぐしていることを自覚するのである。

経絡図どおりだった!
 こうした「触れた部分で、触れていない部分がコントロールされる」というような感覚は、家族に話しても信じてもらえなかったため、私も「気のせいなのかな。思い込みかな」と自分の感覚に半信半疑になっていた。よって、自力では体調管理がどうにもままならず、とうとう整体や鍼に行くことになったときも、「東洋医学なんて、ほんとうに効果あるんだろうか。高額でだまされたりするのではないだろうか」と疑ってかかっていた。
 しかし施術者の治療は私の感覚を肯定するほうに働いた。私が「ああ、そこを押すと胃が動きはじめますねぇ」「なるほど〜、そんなところが首につながってるんだ! あ〜首の血が流れ出す〜」などという感想をもらすと、それがことごとく的確らしく、「経絡図(ツボの位置を描いた図)は、あなたみたいな敏感な人の反応を頼りにつくられたのでしょうねぇ」と、しばしば驚かれることになった。


この後に温熱療法に関しての同様の記述があり、さらに、昔から言われる「体を冷やす食べ物、温める食べ物」についても、自分の身体感覚と一致している旨の記載がある。ある種の人たちが眉をひそめそうだ(笑)。この本のあとがきで彼女は、(規則的な)執筆生活が終わってまたもとの「無能な人」になってしまうことを心配しているのだけど、上の引用部みたいな方面で活躍できる場があるのではないかと思う。なんといっても他に誰も持っていない才能だ。まぁ注意しないとモルモットになってしまうかもしれないけれど……。