すべての夢のたび。

1日1記事ぐらいな感じでいきたい雑記ブログ

もしチェルノブイリを超える原発事故を起こした国の政府がぼくだったら

ぼくだったら、どうしますかね、と、考えてみたのですが、たぶん今の民主党政府とそう変わらない行動になるような気がします。つまり、ヤバい事実は隠蔽し、仕事してるよーとアピールしつつ、実際の対応は出来得る限り引き延ばす、そんな感じです。

 仙谷由人官房副長官は30日の記者会見で、菅政権の東日本大震災復興の取り組みに批判が出ていることについて「震災復興が遅れているなんて全然思わない」と反論した。

 政権の復興策は、朝日新聞の世論調査で「評価しない」と答えた人が5割を超えるなど、評判がよくない。

 仙谷氏は「国もあらゆる施策を用意した。段取りのいい首長がいる市町村は仮設住宅建設も早く、そうでないところをとらえて批判するのは『木を見て森を見ず』だ」と強調。「政府がやっていないという報道が多すぎる」と報道機関に対し不満を漏らした。

 さらに「『木を見て森を見ず』は国民なのか」との質問が出ると「そういう部分もなきにしもあらずだ」と答えた。


この人、ぼくは嫌いなんですけど(ていうか、大嫌いなんですけど)、ここで言ってることは間違ってないと思うんですよね。まぁ間違ってないから言ってもいいかというと、あえて言う奴は馬鹿かもしんないですが。

政治家の仕事は国という森を見ることで、一人ひとりの国民という木を見ることではないと思うんですよ(政治家の人は、そうではない、としか言えないでしょうけど)。

この国をどのようにして存続させていくか、という観点から考えたとき、まぁ原発を捨てるわけにはいきませんよね。たとえいま止めても解体するにも巨額のカネがいるし(加えて代替発電にもカネがかかるし)、なら使い続けながら今後どうするか考えたほうがいい。他国にも売り込んでるわけだし。時々事故は起きるかもしれないけど、国というレベルで見れば大した被害ではありません。それでいくらかガンや白血病の発生が増えるかもしれないけれど、国が傾くほどの死者が出るわけでもない。

森の番人は、木が何本か倒れようが、森が残ればいいのです。一本いっぽんの木のすべてを見て回って世話して育ててやるコストなんてどこにもないし、またそうする必要もないのです。

サンデル先生のトロッコに轢かれる一人のように、フクシマには犠牲になってもらおう。一番合理的でローコスト(=国のため)なのは放置なんです。避難させて今後の生活の面倒をみるより、放置して、何年か何十年か後、病気になった人のうち文句言ってきた人だけに(裁判に負けたら)治療費を払うのが安上がりです。国民はちょっとのことでも騒ぎ過ぎるから、事実はなるべく隠して。政府の立場が悪くならないよう、情報はコントロールして。

まぁ、そんなふうに、もしぼくが国の存続を一番に考えたら、いまの政府の戦略と似た感じになるような気がするんです。もっとも、政治家が私利私欲や自己保身を一番に考えても、やっぱりいまの戦略と同じになる気がするので、実際どうなのかはわかりませんが。

そして、もし自分が森の番人だったらそうするだろうし文句言えないよなー、って考えるかというと、そうはならず、事実いまは番人じゃなくて一本の木のほうですので、やっぱり文句は言うわけですw 切られてはたまりませんのであまり目立たぬよう。番人のどこをつついて動いていただければ自分にうまく陽が当たるようになるのか考えたりしながら。