すべての夢のたび。

1日1記事ぐらいな感じでいきたい雑記ブログ

でもそんなのぼくらしくないよなぁ

昨日の『ゲーセンで出会った不思議な子の話』を読んでいろいろ考えました。

好きになった女の子がガンであることが判り、ほどなくして彼女は死んでしまう。そういう話です。美しい話。でも、この物語の美しさを増しているのは、悲劇に終わるからこそなんですよね。どうにか彼女は恢復していまも付き合ってます、というオチだと、おそらくこんなにブックマークはされないと思う。

そして、そもそもこのストーリーは事実なのか?というのもある。ぼくも事実だろうと信じたがっているけれど、確証はないわけです。小説家を目指している人が練習で2ちゃんねるに書いたもの、かもしれない。しかし、フィクションだという疑いが強かったら、こんなに盛り上がらないだろうと思う。これは事実、ノンフィクション、ほんとうに人が亡くなっている。そのことで読者の思い入れが違ってくる。同じ事を書いても、事実だろうというエッセンスがあるだけでそうなるのです。まるで魔法ですね。事実と信じたほうがノれるからそうするのです。

ぼくはこの話を読んで涙していたわけですが、これもよく解らない。いや、いまさらそこは悩むところではないんですが、不思議です。物語を読んで泣くってなんなのか。悲しい話を読んで「ああ、いい話だった」っていうこの読後感はなんなのだろうか。人が死んだ話を皆で消費して、さっと通りすぎて、中の人たちを置き去りにしてまた次を求めていくぼくらってなんなんだろう。そんなことを考えていました。


彼になりたいか? そう考えました。この輝きをぼくも欲しいのかと。この輝きは、短い時間で燃え尽きる星だけが放つ光なわけです。その代償としての眩しい濃密な体験がある。彼にはもう何も残されていない。それでも、このドラマティックさの主役になりたいだろうか。いいことも悪いこともどちらも大してなかった人生と交換したいだろうか? この光を得るためなら、後で来る闇と引き換えにしてもいい、そう考える人はそれなりにいそうな気もします。

ひとつ確かなのは、他人と交わらないことにはこういったことは起こらないだろうな、ということです。ぼくはそれをずっと避けてきた。他者と深い関係になることを避けて過ごしてきました。休みの日はひとりで行動し、プライベートで会うのはせいぜい年に数人。ほんともう、それを10年近い期間でやり続けているわけです。それがなんで、いまさらこういう話に惹かれるんでしょうね。うーん、余りに長い間ひとりでいすぎて、そろそろ人恋しくなってきたのだろうか?

でもそんなのぼくらしくないよなぁ、ということで、やはりぼくはぼくの道を全うするのではないか。おそらくはそうなるでしょう。そうでないと申し訳が立ちません。星の光は遠くで愛でるものだと思う。ひとりでいることを自ら選択し、その道に殉ずるのです。おなじ道を選んだ人たちとのわずかな連帯はあってもいいと思いますけどw