すべての夢のたび。

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アンドロイド研究は行き詰まっているのではないのか

人と芸術とアンドロイド― 私はなぜロボットを作るのか

人と芸術とアンドロイド― 私はなぜロボットを作るのか


先日購入した石黒浩教授の本を読み終えたのだけれど、感想は、「これも他の本と内容が被ってるなぁ」だった。ファンなので著作はそれなりに買っているのだけど、実はそのどれもが内容の重複が多いように感じている。アンドロイドを作る理由、今までに作ったアンドロイドの紹介、海外展示のこと、アンドロイド演劇のこと。もちろん新しい気づきなども盛り込まれているけれど、基本的には話題はこの周辺をうろうろしている。

どうして、そうなるのか。思ったのだけれど、アンドロイド研究というのは、ある種の行き詰まり状態にあるのではないだろうか?

予算を獲得して研究をするためには、成果を出さなくてはいけない。日本ではそうなっている。しかし、アンドロイドの研究は、もうわかりやすい成果を見せにくいのではないか。

石黒教授は自分の外見をコピーしてジェミノイドを作った。有名なので皆知っていると思うけれど、かなり本人にそっくりである。しかし、アンドロイドであることは、ちょっと見れば誰にでもわかる。問題はその先だ。

究極的には、本人に一番そっくりなのは、本人そのものであり、そこから先にはもうなにもない。ジェミノイドは、いい線まで行っているが、しかしこのアプローチで先へ進むにはもう限界なのではないだろうか。ちょうど、物質を加速していくと、光速に近づくにつれどんどん莫大なエネルギーが必要になってくるようなものだ。あるいはオーディオ趣味のような。ある程度の金を出せばほとんどの人が満足する音が手に入る。しかしその先へ進むには、効果にまるで見合わないような投資を繰り返さなくてはいけない。

ジェミノイドはすでに充分な成果を出しているけれど、しかしあとはもう、お金を出す人には価値のわかりにくいような部分しか残ってないのではないか。むしろ、まだ先へ進むとしたら、工学的なアンドロイドではなく生物学的なクローンの研究になってしまうと思われる。

そこで、アプローチを変えたのではないか。テレノイドエルフォイド(両者とも人の形をした通信端末である)といったもので、人間として認識できる最低限の特性はなんであるのかを探り、それを抽出していくというやり方である。この方法なら、もしかすると本人よりも本人らしいものができるのかもしれない。デフォルメした似顔絵のように、本人の特徴をオーバーに表現してやるのだ。

……というのがぼくの推理であり、なぜあの奇妙な白いヒトガタたちが出てきたのかの説明である。どこまで当たっているのかはわからない。


先日の『アンドロイド版 三人姉妹』上演後のトークで、平田オリザさんが「石黒教授は2年後にはエルフォイドはiPhoneを追い抜くと言っていた」と語り、客席の笑い(爆笑)を誘っていた。さらに、エルフォイドは本来耳に当てて使うのではなく、手に持って向かい合い、語りかけるようにして使うことに触れた。平田さんが「そういうやり方では話しにくいことがあるのではないか?」と石黒教授に問うと、「そういうやり方で話しにくいことがあることのほうがおかしい」と返されたそうである。客席大笑い。

しかし平田さんの話を聞いている限りでは、石黒教授はどうも真剣のようである。コンピューター、携帯電話に続き、アンドロイドが次の時代のメディアになると、本気で考えていらっしゃるようなのだ。ぼくにはまだ少しイメージが湧きにくいが、石黒教授のあの怖そうな眼差し(本人曰く全く怒ってはいないらしい)にはもう何か未来が見えているのだろうと思う。ファンとしては次もまたブッ飛んだモノが出てくることを期待しています。