すべての夢のたび。

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社会は改善されるべきものなのか

仮に社会をひとつとった時に、その社会が「改善されるべき社会」である確率はいかほどのものだろうか? ぼくたちはたまたま「改善されるべき社会」に生まれつき、そしてそのひとつしか知らないのだ、ということなんだろうか?

……なんてことを考えている。

もしかすると社会は、すべからく改善すべきものなのではないだろうか。つまり、「非常にうまくいっており、もうこれ以上改善する必要はない」という事態は、その社会が存続している限り起きないのではないか。

社会には、うまくいっていない部分がある。もちろんうまくいっている部分もある。あたりまえだ。全体の半分は平均以下である。そこが改善されるべき部分だ。

でも、神ならぬぼくたちは、社会の全体を外から見渡すことはできず、全体に一度に手をいれることもできない。皺寄せということばがある。ある部分のシワを伸ばして平らにすることは、別の部分にシワを作っていることと同じではないのか。

神の視点から社会を眺めると、時間が経つに連れてただシワの位置が移動しているだけなのかもしれない。そうであれば、社会を改善するということは、社会を改善するということではなく、ただ社会に動きをあたえているという、それだけなのかもしれない。

シワであれば偶然に、全ての部分が平らになることもあるかもしれない。しかし、もしそれがメビウスの輪のように、ねじれていることが本性であり、解消することがあり得ないようなものだったらどうだろう。もちろん全体を見渡すことなどできないので、そういう仕組みであることなどわからないのだとしたら。